期待という心理
皆さんは普段、何に期待をしていますか?物事や人に対してでしょうか?
とはいえ、急に言われても、何のことだかわかりづらいですよね。
まず、言葉の意味から説明しますと
『期待する』とは「ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと」や
「将来それが実現するように待ち構えること。」
を指すそうです。(辞典より参照)
簡単に言えば他者や物事に対して、
「きっとこうしてくれるだろう(こうなってくれるだろう)」
「ああしてくれるだろう(ああなってくれるだろう)」
という風に考え、他者や物事が動いてくれることをただ待つ、
というような状況のことです。
思い当たる節はありますか?
なぜ私がこのような質問をしたのかというと、それは、この期待するという行為は
一見ポジティブにも捉えられそうですが、実際には人を不幸にしたり
人間関係によくない影響を与える引き金にもなる行為だからです。
今回は『期待』を題材に記事を書いていこうと思います。
人や物事にする期待
先ほど、皆さんに『人や物事に期待をしていますか?』とたずねました。
冒頭では『期待する』の意味もお伝えしました。
ですが
「これだけでどう不幸になるんだ」
など、色々と思う節もあると思います。
ですので、わかりやすいように例を2つほど出してみます。
その中で、私が冒頭にお伝えしたことがどういうことなのかを、
よろしければ考えてみてください。
『物事への期待』
(例1)
ふと地面を見たら、丸められた紙が落ちているので、あなたはそれをゴミ箱に捨てようと、それを拾いました。
その時移動するのが面倒だからゴミ箱に投げ入れようとしますが、結果入りませんでした。
こんな状況があったとして皆さんはどう感じますか?
入らなかったことに対してイライラする方もいれば、
「まぁそんなもんだよね」とあっさりなかったことしたり。
十人十色、様々な感じ方があると思いますが、一旦この二つを基準にさせて頂きます。
この例に出した二つには明確な違いがありますね。
この二つの違いは大きく分けて、期待しているか、していないかです。
一つ目の場合、紙がゴミ箱に入るだろうと期待して投げたが、結果入らなかった。
そのため期待を裏切られたと感じたり、「入ってくれないと嫌だ」という
半ば執着のような感情のせいでイライラしてしまう事例です。
そして二つ目の場合は元々期待をしていなかった、
だから入らなかったことに対しても特別感情の上下はない。
『入らないだろうけど、入ったら嬉しい。』そんな感覚をイメージしてもらえると
この事例はわかりやすいかと思います。
どうでしょう、この二つの例を比べたとしてどちらの方が感情に上下がないか、
また、客観的に見てどちらの方が気楽そうか。
ここに期待という心理の本質が隠れていると私は思います。
つまりは、期待をするかしないかでは感情の面で違いがあり
このポイントが人を不幸にするかしないかの分かれ道だと私は思っています。
詳しい内容は後ほどお書きします。
このように期待をするのとしないのでは、結構な違いがあります。
二つの例をご紹介しただけですが、皆さんもこんな状況を実際に体験したことはありませんでしたか?
もしありましたら、皆さんはどちらに当てはまるでしょうか。
『人への期待』
先ほどの例は、紙をゴミ箱に投げ入れるというシチュエーションでした。
ではこれが人間関係だったらどうでしょう。
人間関係は常に不規則的で他人を操ることはできませんよね。
先ほどの例のような、自分次第でどうこうなるものではない。
つまり他者への期待は、自分ではコントロールできないものに期待をすることになります。
そういうことを踏まえた上でまた例を出してみます。
例えば、友人間でプレゼントを交換する場面があったとします。
(例2)
プレゼントを交換すると聞いて、
自分自身は相手に高価な物をプレゼントとして用意しました。
いざ交換するとなった時に、友人からもらったプレゼントの中身は特別高価な物でなく、
至って平凡なものだった。
こんな時、皆さんどう思われますか?
この場合は、
「自分は高価な物を持っていくのだから、相手もそれなりの物を持ってくるはずだ」
と期待をしているのが前提となっていますが、
期待値が上がっていればいるほど、期待を裏切られたという感情は大きく揺らぎます。
そのため怒りが湧いたり、後悔や、やるせなさなどが生まれたりもします。
逆に最初から期待をしていなければ、この状況下でも相手のプレゼントを素直に喜べるかもしれません。
つまり『期待しない』という行為は一見ネガティブにも思われがちですが、
日々慣れてしまっている感覚から、本来持っていた「優しさ」への
純粋な感覚を目覚めさせてくれるものでもあると思います。
期待することが人間関係上の悩みや苦しみにつながるものならば
期待しないことは、日々慣れて忘れてしまっている
ありがたみを思い出させてくれるものとも言えますね。
期待をしない生き方
今までの文章では期待という行為がどういうものかを書いてきました。
それも一方的なデメリットについてが大半を占める内容でしたね。
ですのでここからは、少し私の実体験も混ぜながら期待をしないことについて書いていきます。
期待することに関してあまり良いことにつながりかねないとは言ったものの、
実際的に何にも期待をしないなんて、もしかしたら仙人だからできる領域なのかもしれません。
この記事を書いている私ももちろん、完全に断つなんてことはできていません。
そもそも私が『期待』という感情に目を向けたきっかけになったのが、一つの本でした。
その本の中には、
「何も期待していない時こそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、
小さな思いやりが感じられるのだ。そこに自ずと湧き上がって来る感情こそ本当の感謝と
いうものだろう」
と書かれていました。
ですので、本質的には期待することが間違っていることだと全面的に言うべきかといえばそうではなく、
期待をしないことで、本来自分たちが持ち合わせていた感謝の気持ちや
相手の行動への純粋な感じ方を取り戻すことができる、
ということがこの記事においての重要な点なのだと、解釈しています。
(ですので上記の二つの例は私がこの記事で伝えたいことというよりは、
この記事の基盤としての『期待』の説明内容になっています。)
私も以前はよく期待をする人間でした。
ですが期待をしては、ほとんどの結果が本来良いものだったとしても色褪せて見えてしまいます。
相手がしてくれた親切な行動も、このぐらいするのが普通だろうと思ってしまっていたりしました。
それでいて自分の期待を下回ると、相手にとっては理不尽な話ですが
不満や怒りが残ってしまうこともありました。
ですがある日、先ほどご紹介した本を見つけてから、無意識な期待に目をむけ、
一つ一つ期待しないようにしてみました。
それこそ例で出したゴミ箱に紙を投げ入れる場面では、入って欲しいと考えていたのを、
どうせ入んないだろうと考えるようにして投げ、
入らなければなんとも思いませんが、入ったときに感じる嬉しさは前者よりも上回るように感じました。
人間関係においても期待しないようにすることで考えすぎなくなりましたし、
逆にありがたみを多く感じるような実感があります。
昔よりもいろんな幸福を感じられるようになったという点では
期待をしない生き方はある意味、幸せになるための生き方の一つと言えるかもしれません。
まとめ
今回は『期待』をテーマに記事を書かせていただきました。
初めは期待の意味から、次に期待をすることとしないことの違い、
そして期待をしないことで得られるメリットと実体験。
このような流れでお伝えしてきました。
もちろんこの記事で、期待することを完全に断てとは言いません。
あくまで『過度な期待は身を滅ぼす』ということと、『期待しなければ本来の感覚を忘れずにいられる』
ということをお伝えしたかったのです。
私は実体験を通して気づくものがたくさんあり、その一つに
「人間って考え方一つで変わるもんなんだなぁ」
とよく思います。
今回もまとめると考え方の問題でした。
考え方を変えてみると、随分と色々なことが変わるものなので
考え方・感じ方というのは面白いものだと常々思います。
今回の記事はいかがでしたでしょうか?
期待の心理に関して何か新しい気づきがあったり
共感していただける内容があれば嬉しいです。
(おまけ)
余談ですが、この記事や他にもある私の記事には
時々サドベリーとは関係のないもの(今回で言えば心理について)
を書かせてもらうことがあります。
今回などは、ほとんどサドベリーのことを書いていないので
書きながら「掲載するにふさわしいかな」と思ったりもしましたが、
サドベリーは学びを可視化することがちょっと難しい教育でもあるので
ある意味、授業を受けることのない生徒がこういうことを学んでいるのかという
手本にもなるのではないかと私なりには考えています。
この記事の内容のようなものを自主的に学ぶのと、
私の年齢で本来習う文法などを学ぶかの良し悪しは人によって違うでしょう。
けれど私は今の学びの環境に不満がありません。
もちろんサドベリーに来て何を学ぶかは人それぞれなので、私のような方向に学びを展開するかは本人次第ですが、
私のこの記事や他の記事が、東京サドベリースクールを入学のご検討の枠に入れようとされている方々の後押しになれたらいいなと思っています。