【スタッフ教育コラム】学び・吸収・没頭

サドベリーで生徒たちを見ていると、何かを「学ばされている」という状況を目にすることがありません。本人の興味や好奇心、必要だと考えたことを「吸収している」という表現の方が適していると感じます。その夢中になっている状態が「没頭」です。没頭はフローやゾーンという表現をされることもあります。


時折、学校体験中の子や、入学して間もない生徒が、教科書や塾の宿題のようなものをしていたりします。「親にやりなさいと言われているから」や「勉強しないと自分がだめになっちゃうと思うから」と本人は言います。
でも、すぐにその姿は見かけなくなります。多くの場合、前者は「やらされている」から、後者は「一般的な周りの子がそうだから」という理由でやることが多く、本当に自分の内から湧き出たものではないんですね。

だから、誰にも管理されず、東京サドベリースクールの周りの生徒がやっていないとやらなくなる。
でももちろん、目的をもってそういう教科や学問の学びをしている生徒もいて、その生徒は本当にやろうと思ってやっています。スタッフから見ていても自然体ですし、無理をしている感じがありません。なんならやろうとも思っていないし、気合も入れていません。自然とやっているのです。
数学の問いを本やインターネットから自分で探してきて集中して解いていたり、分厚い歴史書を真剣に読む生徒、心理学や哲学の論文から考察している生徒もいます。
ですが、その様子を見て「あぁ僕も“勉強”やらないと」と始める多くの生徒は、多くの場合本人の中に興味の芽がないため続きません。

一般的には学校というと「学ばせる場所」「学ばなきゃいけない場所」というイメージがあると思います。しかし、学ばせるというのは、教師が生徒に、親が子に「やらせる」ということです。それはどちらかというと大人目線。
「無理に強いられた学習というのは、何ひとつ魂のなかに残りはしない」という哲学者プラトン1)の言葉にあるように、学びは本人にその気がなければそれは残りません。むしろ嫌だった記憶が残ることもあり、未経験のゼロどころか、苦手意識や嫌いといったマイナスにさえなります。



「でも、基本的なことできないと困ることがあるのでは?読み書き計算とか」とよくご質問をいただくのですが、もちろん知識を増やすことで、仕事に就きやすかったり、人としての成長が起きるというのであれば知識を増やすことをすればいいと考えています。でもその知識は書籍や教科書を取り寄せたり、インターネットで調べれば得られるものもあるので、それを一生懸命学校で座学で覚える必要があるのかは、一度立ち止まって考えてもよいでしょう。そのうえで良さそうであれば、納得感をもって取り組めます。
そしてそれ以上に、一般的にできないと困ることというのは「本当にそうなのか」、そして「それをいつやる必要があるのか」を考える必要があります。読み書き計算は能力としての基礎だとして、それ以前に人生の基礎は何でしょう。

その視点に立って、私たちは様々な教育的な環境を整えています。自分の人生を良いものにしたい、そのためにも社会の一員として人と生きていくことを大切にしたいのであれば、東京サドベリースクールはやりやすいかもしれません。
答えのないことを考え、自分の興味のあることをとことんして、また本人も含め他者とも人として認め合い、互いに物事の解決や発展するための活動をしている場所ですので、人間的自立や、自由に生きること、他者を尊重しコミュニケーションを取ることなどは経験しやすくなっています。

でも決まった教科の決まったカリキュラムはなく、それらを誰かが与えてくれたり、心寄せて見守ることはしながらも“面倒見が良い”という名でサービスや世話を焼いてくれることはありません。なぜなら社会は、いつでも誰かが自分の面倒を見てくれるわけではないからです。
教育や子育てのゴールの1つは、対象者(ここでは生徒)の自立です。自分で歩んでいけるようになること。そのため私たちは、生徒自身が自分や身の回りのことに自ら気づき考え行動し、結果に責任を取れるようになるためにあえて与えない、何事も自分から動く必要があるようにしています。そのように動けば経験や知識、そして人との輪も増えていくものだと考えているためです。

しかし教授法での国語や算数は設定されていないので、そういうことをしたいのであればあらかじめ設定されている一般的な教育方法の学校などに行く方が良いかもしれません。もちろん本校は何をしても自由なので、いつの時代も必要である独学で学んだり、教えてもらえる環境をスクール内で自らつくり自分のやりたいことを組み立てることもできます。
サドベリーの生徒は独学が多いのですが、それが最も手軽で、自分のペースで、とことんできるからです。もちろんスタッフが教えることもあれば、専門的な分野は生徒が自らその道のプロに教えてもらうためにスクールに来てもらう方法を考えて行動したり、その人や環境に飛び込んでいきます。
そこまで行動する生徒たちは、そこに至るまで自ら行動してきているし、やる気もあるので、その先生に気に入られたり、その職場や環境になんとかして入っていく傾向があります。その際にスタッフは、生徒からのサポート依頼により、その経験ができるようサポートをすることもあります

このように私たちは、子ども時代から「与えてもらって当たり前」ではなく、「自ら生み出す」ことを生徒がたくさん経験できるようにしています。その経験は、生徒自身がより広い社会を自立して豊かに生きるために必要であり、役に立つと考えているからです。



そう考えると、一般的な教育が良い悪い、サドベリー教育が良い悪いという単純なものではなく、やはりその子自身が、何を学び経験したいのか、どう育ちどう生きたいのかという目的によって教育や学校(私たちも生徒自身が学びをつくる学校(スクール)です)を選ぶことが大切です。

そこで確認したいことは入学希望者が求めるニーズと、学校側(もちろん本校も含めて)が提供できるものがマッチしているか。受け入れる側(学校)と入る側(生徒や保護者)にどういう合意があり、誰が主役なのかということです。
ビジネスでも家族間でも、合意のないところでは、お互いに不幸になりえます。そして教わったり学び経験する場所なのに、生徒の側に学ぶ気がなければ学べないでしょう。教える側も「その内容を学びたい、経験したい」生徒に教えたいものです。

前述したとおり、東京サドベリースクールは、あらかじめ設定された知識を教えるカリキュラムがありません。
それは、学びたい人が、学びたい時に、学びたいことを、学びたい方法で学ぶのが、最も自然であると考えているからです。そしてそれは知識や学問と同じように、あるいはそれら以前に、自分自身を育てることが先にきます。
ある特定の分野の知識や教科は、学問というジャンルでは基礎であり、樹でいえば幹でしょう。でもそもそもの人生という規模でいえば、それは枝になります。人生の根や幹を育てる必要がある。それは自分を知ることや非認知能力、在り方や生き方、他者や社会とどうかかわっていくかということも含めた、自分という全体的なものとなります。
当時17歳の生徒は、一般的な教育の学校と東京サドベリースクールの違いを独自の視点で表していました。
「一般的な学校では頭を鍛えてきたけど、ここでは自分を育ててる」

私は、「学び」は一律に決められるものではないし、一定でもないと思っています。ある日を境に、何かに夢中になる。どんどんがむしゃらに「吸収」する。それが一日だったり、一ヵ月だったり、一年だったりします。もしかしたら一生かもしれません。それは誰にも、本人にもわからない。
でも「没頭」するということは、多かれ少なかれ人にもともと備わっているものだと思います。寝ることを忘れて本を読んだことのある人は多いでしょう。私もしょっちゅうです。そういうときは学んでいる感じはしません。

まさにスポンジのように吸収しているし、集中して、まるで時間がなくなったかのような状態。それが周りから見たら没頭している状態です。フローとかゾーンと呼ばれますが、そのような呼び名を知らなくても誰しも経験があるものです。
それは本を読むことであれ、何かを作ることであれ、音楽をしたり作曲をしていることであれ、夢中になって公園で遊ぶことであれ、ゲームの攻略をしている姿であれ、ジャンルに関わらず美しいものです。
そういう没頭できる環境を、たっぷりの自由な時間と、それを認めるスタッフと生徒たちで、これからも一緒に大切にしていきたいと思っています。

杉山まさる

1)国家/プラトン

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