<生徒投稿>2年ぶりに勉強をした生徒の話
こんにちは皆さん、生徒です。
今回お伝えしていくのは、サドベリーの入学を検討させる方も、入学された方、子どもも親も
一度は悩まれる『勉強』についての話です。
私はサドベリーに在籍して、厳密には1年と半年程になりますが、
サドベリーに入学する以前のことも含めると約2年間勉強をしてきませんでした。
(ここでいう勉強とは一般的な学校で行う教科的なものを指します)
そんな私が先日、漢字を忘れてきて焦ったことをきっかけに、2年ぶりに勉強をしてみました。
漢字以外に、数学と国語を少しした程度ですが、
面白いことに気づいたので、今回記事にしてお伝えしてみようと思いました。
大まかには、勉強をしたことで気づいた感想と、
私が勉強とともに大事だと思っているものをお伝えしたいと思います。
いつも通り個人の見解を書くことになりますので、あたたかい目でご覧いただけると嬉しいです。
距離を置くことで見えるもの (勉強をしてみた感想)
結論からお伝えすると、2年ぶりに勉強をした感想はこちらの3つです。
・問題に正解があることに安心感を覚えた。
・解き方を知っていたり、知識があれば誰でも同じ答えが出せるという感覚を再認識した。
・誰が解いても正解が同じになることが、少し「つまらない」と感じた。
以前から記事を読んでくださっている方はご存知かもしれませんが、
私は公立小学校に通い卒業したのち、
既存の教育環境に疑問を抱き、色々調べたり試した結果、最終的に東京サドベリースクールに入学しました。
小学校を卒業してから約2年間、一般的な学校の勉強をしていないのなら、
その間に何をしていたのかと思われるかもしれません。
その間私は、主に自分と向き合うための考え事と行動をずっとしていました。
そのような中で考えるのは、主に答えのない問題です。
そのため、久しぶりに一般的な学校の、いわゆる勉強の問題を解いた後に
正解があるという感覚に新鮮さ(?)を感じたのです。
それと同時に色がないというのか、誰が解いても正解の答えが同じという点が、少々つまらないとも感じました。
あとは、答えの求め方や付随する知識さえ知っていれば誰でも同じ正解に辿り着くことができる感覚を
再認識したというか、久しぶりに思い出しました。
それまで忘れていたというのもおかしな話ですが、
正解のない問題とある問題では、違いが大きいので感覚が違うのでしょう。
これら3つを含めても、久々の勉強は楽しかったです。
感覚としては、小学生の頃のような「やらなきゃいけないもの」という認識が今は薄れているので、
いわば趣味を楽しんでいるような感覚でした。
もしかしたら、勉強を”やらされるもの”や”嫌なもの”として認識するからこそしたくなくなるのであって、
あくまで趣味や、自分がやりたいこととしてする勉強なら、
どれだけ勉強が嫌いな人でも楽しくできるかもしれません。
ですがまぁ、ネガティブな認識が薄れたり、自分から勉強したいと思うまでには、
個人差はあれど本人のタイミングがあると思うので、
そのタイミングまでは離れてみたり、自分と向き合うための時間も必要であると私は思います。
動機を自分から作ることが一番のエネルギー源になると考えていますので。
幸せに生きるには、答えのない問題集を解き続ける必要がある
学問的な勉強や正解のある問題を解くことは、人生において何か能力や知識を得たり、
現代社会で食べていくためには必要なものであると思います。
もちろん必要になる分野や知識量は人によりけりだと思います。
その上で私がお伝えしたいのは、答えのない問題を考えることも同じくらい、
いえ私の中では答えのある問題を解くよりももっと、重要度の高いものであるということです。
先ほどもお伝えした通り、私が勉強をしてみて思ったのは正解があることへの安心感であったり、
同時に窮屈さや色のなさという点、いわば正解があるないの違いによるギャップが大半を占めます。
その感覚の根源はやはり、この2年間たくさんの答えのない問題に没頭していたからこそだと思います。
ですので、ここからはサドベリーの一生徒として参考になるかはわかりませんが、
答えのない問題を考えることの重要性と面白さについて書こうと思います。
答えのない問題とは、いくらでも視点を変えて考えることができ、広がりと色のある問題だと私は思います。
それでいて正解がないので、時に不安に駆られたり、考えずに楽をしたくなったりする。
自由だからこそ果てしなく、光も闇も存在するが、それらを自身でコントロールすることもできる。
つまり全ては本人次第で、どんなことにも応用できる、生きる上での基礎問題。
それが私の考える答えのない問題の全貌です。
つまりなぜ答えのない問題を解くことが重要なのかというと、
もちろん本人次第なのですが、自分を知り向き合うことで、人間の根幹的な部分での成長ができるからだと思います。
さらに言えば、その成長によって幹ができ自己を確立することにつながるかもしれません。
人との関わり方や、自分の欲や感情、心とどう付き合っていくか、自分にとっての幸せとは何か。etc…
これら全ては答えがないわけですが、人の生き方や在り方を左右するほどの重要な問題です。
こういった根幹的な問いを考えてこそ、学問的知識や自身の能力をより良い方向に
使うことができるのではないかと、私は思っています。
ここまでお伝えしてきましたが、結局は私が哲学的な物事を考えるのが好きで、
一般的な学校の教科的勉強も大事だけれど、答えのない問題に自分で答えを出せるようになると、
人生を歩むのが楽しくなる、ということをお伝えしたかったのです。
もちろん、正解のある問題もない問題も、どちらも必要だと思うので、結局はバランスの話になってしまうのですが。
終わりに
2年間、一般的な勉強を行わず、一時は筆算すらあやしかった私ですが、今までを後悔することはありません。
むしろ一般的な勉強から離れたことが、今の自分にとって結果的に良い影響をもたらしたとさえ思っています。
それに2年間は、哲学的な視点で身の回りの物事や自分のことを考えるのにのめり込んでいたので、
それはとても有意義な時間だったと思います。
本文には書かなかったのですが、勉強をした感想が実はもう1つあり、
それが「小学生だった頃と呑みこみの早さが全然違う」というものだったんです。
新しい内容を学ぶにも、昔習ったことを復習するにも、スピードと頭へ入ってくる感覚が全然違いました。
この2年間、学問を勉強したりはしませんでしたが、
それ以外のことをしている間に吸収能力に拍車がかかったのかもしれませんね。
勉強でもなんでも、量も内容もタイミングも本人に合うことが重要であると私は考えます。
なぜなら、得意不得意や興味、呑み込みの早さなどには個人差があると思いますので。
自分と向き合うことも、学問の勉強も、時と場合によっては毒にも薬にもなりうると思っています。
ですのでやはり、何事もバランスですね。
(バランスが大事だと分かっていても、偏ったり固執したりしてしまうのが人間なのですが^^)
私はこれからも、自分にとって必要なものを考えながら伸び伸びと学んでいきたいと思います。
その結果を、こういった記事にしてみなさんに届けられるよう、精進してまいります。
今回も読んでいただき、ありがとうございました!
生徒