【スタッフ教育コラム】タイミングは人それぞれ

「つまり、今はそれをやりたくないんだね?」
 
ある日、生徒とスクールに本棚を作ろうとなりました。スクールでたくさんの本を頂くのですが、置き場所がなくなってしまったのです。図書委員の生徒とスタッフで一度、どんな本があるのか全て調べたら、同じ本が2冊(多いものは3冊)ありました。頂いてありがたく感謝しながら、また申し訳ないとも思いながら、その本を持っていないサドベリースクールに寄付をさせてもらったり、古本屋さんに売らせていただき、そのお金でスクールに欲しい本を買わせてもらおうと話していました。
しかし、まだまだ本棚に入りきらない本がたくさんあります。そこでさらに話し合い、「本棚を作ろうか」となりました。本棚を買う事もできますが、調べてみてもなかなかスクールのサイズと雰囲にあう本棚がありません。そこで、自分達でスクールにピッタリの本棚を作ろうとなりました。
 
ほどなく、本棚を作りたい生徒とスタッフのメンバーで話し合いがスタートしました。「どこに置くか」「費用はどうしよう」などたくさん話し合い、図面も引きました。本はたくさん置くと結構重くなるので、棚の対過重の計算もしました。耐震もどうするかも考えました。話し合いは当初、順調に進んでいました。
 
しかししばらく経って、ひとりの生徒がだんだんと「今日は忙しいから今度でもいいかな?」と言うようになったのです。「いいよ。じゃあ次はいつにする?」「う〜ん、明日?」「オーケー」そして次の日に話し合いをしました。
ただ、やはりだんだんとその期間が長くなっていきました。そのうち、「今度は長期休みの後でもいいかな?」と。忙しいという理由でしたが、スクールでは特に忙しそうではありません。何か思い悩んでいる感じもなさそう。「やりたくないかもしれないな」と思っていましたが、特に何も言いませんでした。
 
そのうち長期休みに入り、休み明けになり、彼も話し合いに参加し始めました。でもやはりだんだんと進むスピードが遅くなっていったのです。彼は色々と理由を付けて延期していました。
そしてある日、ついに皆に言いにきました。「ごめん。しばらく本棚の話しから抜けていいかな?」と。「そうなんだね、どうしたの?」と聞いたら、色々とできない理由を話していました。どれもそれらしい理由。しかしどうもしっくりしません。そこで「つまり、今はやりたくないんだね?」と聞くと「うん」とのこと。こういうことは、生徒にままあることです。
 
今回のように「やろう」となったことを最後までしないという事について賛否あるかと思います。でも考えてみれば、誰にでも経験があることではないでしょうか。興味を持って始めてみたが、だんだんと興味が薄れてやる期間が空いていくこと。
そして大事なのは、やってみてわかる事もあるのです。彼は、当初楽しかったようですが、やはりだんだんと興味が薄れていったとのこと。今後また、そういうことに興味が向いたらやるかもしれません。でも本質的には今は興味がなかった(なくなっていった)ようです。
それがわかってよかったです。もちろん責任感なく抜けていいものではありませんが、同時に誰かに気に入られようとして嫌々やるより、よほど健康的です。彼はちゃんと自分で言いにきたので、「そうなんだね、わかったよ」と周りは納得できました。責任も果たせました。興味がなくなる事は悪い事ではありません。自然とそうなったのですから、本人にもどうしようもない事です。でもちゃんと自分でその旨を言いにきた事が大切でした。彼は自分から言いに来た事で、周りとの信頼関係を保ったのです。人はやってみたいと思うタイミングもそれぞれならば、やめるタイミングもそれぞれです。
 
またある10歳の生徒は、3歳年下の生徒にアナログ時計の見方を一生懸命教えていました。彼女曰く、「将来、絶対役に立つから!」と。でもその年下の生徒は興味がなさそう。年上の生徒は何度も何度も、毎日毎日、一生懸命覚えさせようとしていましたが、本人は一向に時計を読めるようになりません。彼女はついにあきらめて、教えるのをやめていました。
しかし、その数年度、その年下の生徒は自然にアナログ時計が読めるようになっていたのです。もちろん、その年上の生徒が教えたときは読めておらず、覚えていたわけでもありませんでした。でも、本当に必要なことや興味のある事は、本人も気づかないくらいに自然と覚えていくものだったり、クリーンな努力で習得するものなのです。母語を自然と話せるようになるように。
 
 
このようにサドベリーの生徒たちは、自分の興味のあることを、自分のタイミングでしています。そして自然と習得したり、自然とやめていく。自分のタイミングで、自分に必要なこと、やりたいことがわかっていく。しかし、その中には、自分の興味のあることがわからなくて、いつもしていることを習慣的に行っている生徒もいます。
 
その活動例の1つがゲームです。もちろん、ゲームそのものが好きで毎日やっている生徒もいて、混在しています。一見見分けはつかないでしょう。でもスタッフも毎日一緒にいて、本人のこれまでの生活の文脈や様子などから、やはり自然とわかっていきます。
 
ある12歳の男子生徒は、毎日ゲームをしていました。入学して3年目、ずっと毎日ゲームをしています。そういうことを聞いて「ずっとゲームをしているなんて信じられない」「ゲームをさせに学費を払って学校に行かせてるわけじゃない」と思うかもしれません。でもたまたまその生徒にとっての今の興味がゲームで、現代はそれを心よく思わない大人が多い時代ということです。
たとえば現代の大人は、子どもが小説を読んでいると、「この子は素敵だ」という目で見がちです。しかし、明治時代は、「小説なんて嘘の話を読むなんて!」と言われていました。昭和の時代にパソコンを好きな人はオタクとある種蔑まれて呼ばれていましたが、もちろん今はそのように呼ばれませんし、一時は時代を代表する起業家も多数生まれましたし、現代では生活インフラになっています。またオタクという言葉もかなわずしも蔑む意味合いではなかったりもします。
好きなことがたまたま近くの大人が気に入らないだけです。それに、本当はゲームをしたい子が、もしかしたら特に読みたいと思っていないけど「大人が喜ぶから」「いい子でいたいから」と“良い子戦略”で小説を読んでいることもあります。ここでも大人の価値観からの色眼鏡で見てしまっている影響が出ています。
 
なおゲームが好きなその生徒は入学当初、全くしゃべらない生徒でした。お姉ちゃんと一緒に入学したのですが、お姉ちゃんはよく話しをしています。でも弟の彼は話さない。
そんな様子ですから、当時しばらく、彼の声を聞いたことのない生徒も多かったのです。ミーティングでも、もちろん意見を言うことも意思表示もせず、固まっていました。そんな彼も、数ヶ月すると一言、二言しゃべるようになりました。
でも、あいかわらず話しらしい話しをすることはありません。スタッフ間では、「まぁ、話したくなったら話すだろうし、話さないことに良い悪いという意識を持たないようにしよう」と見守り続けていました。
 
私たちスタッフは、生徒に関心を寄せますが干渉はしません。「今日はいつもと比べてなんとなく明るい雰囲気だな」「話しかけてほしくない雰囲気を醸し出しているな」「こんな活動をしているんだな」「口の周りが乾燥しているな」といったことを、チラッと横目で見て感じ取ったりしています。ただ基本的に、彼らが自分達の世界に入っているときに、こちらの“好意”や“不安”から「なにしてるの?」などと入っていったりすることはないのです。
 
彼に関しても、今日は誰と一緒にいたなとか、顔色がこうだったとか、こんなことしていたな、ということを見て感じ取るだけで、判断をしませんでした。こうかもしれない、こういう気持ちかもしれないということを考えたり、時には“そうかもしれない感情が過去自分の中にもあったか”など自分の心や経験の中にもぐったりしますが、原則的に、ただまるごとそのままを見るだけです。判断はしません。
 
そうするとおもしろいもので、彼自身が自分で変わっていきました。入学して3年たち、ものすごくおしゃべりになりました。ミーティングでは、変わらず多くを語ることはありません。
でも1人ひとりが意見を言うときなど、「こう思う」とか言うようになったのです。その場ではリアクションしませんが、心の中で「お、しゃべった」と思ったものです。
夕方、スタッフ同士で生徒の様子を話している時に、その場にいた他のスタッフも同じ事を思っていました。でもそのミーティング中に「しゃべれたね〜!」などというリアクションはしません。
 
もちろん、入学直後からミーティング中にどんどん意見を言う生徒もいます。そして相手の意見を受け入れるという事も学んでいる。それに比べたら、彼はあまり積極的に見えないでしょう。もっと自分の意見を言えるように誘導したり、話しを振ったりした方がいいのではないかと思われるかもしれません。「自分からは言いにくい子だから」と判断して。でも、いいじゃないですか。そういうところを周りと比べる必要はありません。彼自身が、自分の意見を少しずつ言うようになった。それが本当にすごい変容だと思うのです。
 
どんどんと意見を言い、相手の話しを聞く生徒ももちろん素晴らしいです。それがその人の今の個性ならそれを大切にしてほしい。それとともに、自分の意見を言うようになっていくその過程も素敵だと思います。
 
人は、得意分野・不得意分野がそれぞれ違います。何かの芽が出るタイミングも、それが花開くタイミングも人それぞれ。じっくり考えて意見を言う人、話しながら考える人。様々です。顔も全員違うのと同じ。それなのに、「これを得意になりなさい」「これが不得意ではダメ」というのは、他人にも言われたら苦しいもの。それは子どもも同じです。
でも大人は子どもにしがちですよね。いいところを本人が伸ばして、苦手なところはそれを得意な人にお願いし、お互い感謝し合えればいいじゃないかと思います。そうやって大人の社会も機能していますし、人類も発展してきました。そしてそれらを見つけるタイミングは、本当に人それぞれ。
 
タイミングが大切です。その為には時間をかけてそれを待つ必要がありますが、人はそのタイミングが来たら自然に乗れます。でも周りも自分も、なかなかそのタイミングを待てません。だから急かしてしまい、そしてタイミングの前に始める。しかしそのタイミングじゃない時に始めると、それ自体を嫌になってしまうこともあります。
人というのは自分のことはやるべき時が来たらやります。ただ、その時になればわかるのですが、それまでは誰もその時を知らないのでなかなか待てないのですね。しかし待つ側は、待つということをやめれば軽やかになれます。待つという行為をするではなく、タイミングはそれぞれなのだと、意識を変えてみましょう。そうすればそれぞれのタイミングを大切にできるようになっていきます。
 
杉山まさる
 

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