【スタッフ教育コラム】時代と社会に沿う東京サドベリースクールの学び
今はどんな時代か、どんな社会か
21世紀が始まり、もうすぐ4分の1となります。
今世紀は、これまで国家や大企業レベルでつながっていたものが、世界全体で個人レベルでつながり、あらゆる分野であらゆる変化が起きている時代。また世界の人口は現在の約80億人から21世紀中に約104億人と3割増え、日本は逆に、約1億2600万人から約8700万人にまで3割の人口減少が見込まれています。
さらには情報爆発や環境変化、資源枯渇、技術革新など変化が起きない分野を探す方が難しいほど社会は変化しており、これまで接しなかった人々とのつながりができるからこそ、思想や前提の違いで分断も起きています。
その中で日本の良いところとして物理的に恵まれていることがあります。
これまでほぼ単一民族として同じ思想や前提があり、その前向きな面として子どもが1人で出歩けるほど治安は世界トップクラス。
また全員が同じ方向を向き、一部の指導者の通りに一生懸命働けばそれが正解だった時代には、わかりやすい成功の定義もありました。その恩恵として現在も世界4位の経済力を持ち、仕事や住む場所を自由に選べますし、物に溢れた社会でもあります。
しかし一方で、規範や思い込みに強く縛られ、思考の自由が制限されている社会でもあります。
同調圧力の強い社会といってもよいかもしれません。違う他を認め合う”和”ではなく、他を飲み込む”同”。全員が同じレールを走らなければ、生きていけないかのようなマイルドでありながら強力な圧迫感。全ての人が特定の認知能力を同じようにできなければならず、多様な個性を制度と固定観念が押し殺しています。
そのような均一化された社会では、自分で考えることに代表される人間としての個性が消されていきます。
しかし、社会全体で特定の正解のない時代に必要なことは、「そもそも、、」と本質的な解を求める力、つまり本当に自ら気づき考え動くことや、他者を理解しようとし社会を主体的につくっていく力、自他を認め合える姿勢であると考えます。それらは車の運転のように、実際の経験を積み重ねることで少しずつ上達していきます。
卵は1つの籠に盛らない
前述したように1つの決まった道をひた走ればうまくいった時代は、全員がその道の先に成功と幸せがあると信じていればよかったかもしれません。そしてもちろん、現代の豊かさは人生の先輩方がつくってきてくださったおかげであることも、感謝し忘れてはいけないと思います。
しかし、そんな時代は実は歴史上少ないのです。またその全員が同じ能力を身につける必要のある社会で個性を殺された人も数多くいました。
現代は不安定で不確実、複雑で曖昧なVUCA時代といわれていますが、歴史からみると未来を見通す能力が人類にない以上、VUCA時代の方が当たり前でした。特に今後は全員が1つの道をひた走ることは非常なリスクを伴うと考えています。
「卵は1つの籠に盛らない」とは資産運用の格言ですが、全ての子どもを同じ教育で育てることに関しては、国家や教育制度にもいえるでしょう。
子どもはこれから育つ卵です。
国や社会として、様々な個性や相性、興味や才能を1つの道、1つの籠だけで育てて、その1つの教育がうまくいかなったらどうなってしまうのか。
私は十人十色の個性を、十人一色にしていくことよりも、様々な教育の選択肢を選べるようにすることで本当の十人十色で輝くようにできることこそ必要だと考えます。特に人口減少社会では、より1人ひとりの個性を輝かせる環境であることは、個人の幸福と社会の継続に必要不可欠なのです。
そのためには今の1つの教育だけやその派生型ではなく、もっと根本的に違う他の教育の道もあることが大切だということです。その選択肢の1つがサドベリー教育のサドベリースクールです。
さらには、生徒自身が自分の学びを自由にデザインできるサドベリー教育は、スクール内でも十人十色が可能です。
教育制度として子どもが多様な教育から自由に自分を育てる選択ができること、そしてサドベリースクール内でも自由に自分を育てることができること。
この2重の自由こそ、私たちが自由に自分の人生を創り出していきたい子どもと、その経験をさせてあげたい保護者、国民としての社会性とカラフルな個人力を育てたい社会にとってのキーポイントとなると考えています。
時代と社会に沿う東京サドベリースクールの学び
子ども時代から自ら気づき考え行動していく姿勢と、他者や社会に主体的に関わる経験ができる教育。その有力なものが、私たちはサドベリー教育であると考えています。では東京サドベリースクールが他の教育とどう違うのか。
しかしまずは、個別の教育である東京サドベリースクールの前に、教育という世界の全体像から見ていきましょう。
教育には大きく2種類あります。
1つ目は為政者等がより繁栄するために民に行わせる教育です。
これは産業革命時に工場労働が生まれたことと、戦争と関係があります。それまでの農業、軽工業から重工業に社会が移行していきました。まず工場労働者は決められた事を、決められた時間に、早すぎもなく遅すぎもなく滞りなく行う能力が必要です。そこに個性は必要ありませんし、ましてや創造性も必要ない。まだ機械が人間より高価であり価値があると考えられていた時代、今の産業ロボットのようにただただ流れ作業のようにこなす力が必要でした。同じ手順で同じ結果を出さなければ「困った人」扱いになります。
そして戦争です。戦争も兵士にある程度の知識がある方が戦争に勝てることが分かってきたのです。しかし、工場労働者と同様、個性的であったり、創造的であったり、ましてや指揮系統を無視する兵士は困ります。そのため、工場労働者も兵士も、ある程度の固定された方法で知識や訓練を与え、言うことをよく聞き、権利など主張しない者の方が都合が良かったのです。
しかし、労働者や兵士にも恩恵はありました。来年どうなるかわからない農業労働者や個人で仕事をするよりも、大きな会社や組織で賃金労働者として働く方が安定していました。しかし当然その賃金規模は大きくなく、資本家や特権階級が大きな利益を得られるようにできていたからです。この関係性は現代の資本主義社会にもつながります。
2つ目は個人が何かしらの分野で進歩するためのものです。
これらの教育には大きく2つの柱である「個人の生きる力」と「社会で生きる力」を育む目的があります。一般的には教育とは個人の能力を伸ばすことを目的としており、その主流は認知能力という知識を覚えテストで測るようなもの。だからテストを1人で受けるのです。社会ではチームで問題を解決しますが、学校では個人で問題の答える必要があります。しかし、個人の生きる力とは、実は他にもあるのです。
少し詳しく見ていきましょう。
個人の生きる力
「個人の生きる力」のために学問が必要だと考える人は学問をし、体験が必要であると考える人は体験を重視します。どちらにせよ個人で何を学ぶかの手段は「固定」「選択」「自由」に分かれます。
「固定」は、教育内容を為政者や教師らが「これを学んだ方が良い」と決め、それらを生徒は変えられないものとして固定されています。主に特定分野の学問や目的の動きができるようになるために、あらかじめカリキュラムが組まれているものです。知識や動きを”注入”するため教育界では注入教育と呼ばれることもあります。今日の一般的な18歳以下の公私立学校や専門学校、消防学校、また例えば華道の教室、バレエの習い事はここにあたります。限られた分野を集中的に学びたい際に効果を発揮しやすい手法です。
「選択」は18歳以下の教育機関では多くの場合、教師や学校の決めた勉強やプロジェクトと呼ばれるいくつかの授業や体験の中から、生徒が選択できるようになっています。多くの教育機関では、「固定」と「選択」がミックスされており、完全に固定ではなく、また完全に自由ではありません。18歳以下ではありませんが、大学教育がイメージしやすいかもしれません(多くの大学は必修科目(ある種の固定)と選択科目がありますね)。上記の内容の学校やスクール、またフリースクールの教師やホームエデュケーション(家庭をベースに育つ)の親が子どもに勉強を提案し、子どもがやる・やらないを選べるというのもここに入ります。
「自由」は生徒の個人活動を本人が決めて行うことで、学びを自らデザインする力や、物事を分野を試したり、特定分野を深く追及する力を養います。その過程でぼーっとすることですら自由にできます。この一見無駄と思える時間というのは外から見ると学びや育ちになっていないどころか、必要ないものと映るかもしれません。しかし本当の自由というのは、このような時間の使い方すら許容されるものです。そうなると自由と放任の区別がつきづらいかもしれませんが、その自由に教育的な意図があるかと、教員や大人が生徒自ら活動をつくるのを見守りつつも、口を出さず本人に心を寄せているかが、自由なのか、あるいは選択や固定との違いとなります。
東京サドベリースクールで生徒は個人的な活動を「自由」に行うことができます。これは大きな特徴の1つです。
そこではルールや他者を大切にしていることで制限されることがないため完全な自由があり、本質的な問い「自分は誰か」「何をしていくのか」に向き合います。外から与えられるよりも内側から育むため開発教育と呼ばれます。その自由の中で、例えば興味のある料理を探究する、実際を見に裁判傍聴に行く、専門分野のプロに会う、静かに自分にトコトン向き合うなど、多彩な活動を行える自由があります
社会で生きる力
「社会で生きる力」とは、自ら動いたり、他者とよい関係を築くことや、共に理想とする社会を協力してつくる力を指しています。これらは主に実際に他者と関わる経験で得られます。
元々は土地の守り神をまつるための地域の集まりを「社」と古代中国では表したそうです。日本でも神社といいますね。やがて日本では特定の目的や人々の集まりとして、社会といった言葉が使われるようになりました。
教育は「社会で生きるために学ぶもの」または「社会の一員として学ぶべきもの」という考え方があります。そのため一般的な教育でも「社会を意識した教育が大事」と言っていますし、「いや、学校でも社会で生きる力といって勉強をしているよ」と思われるかもしれません。
一般的な学校教育では主に言語、論理・数学の知識を習得し、答えのあることに素早くたどり着く力を育てています。これは個人の特定分野の認知能力を育てているのであり、他者と関わり合って協力する意味での社会で生きる力とは分かれます。そのため個人の知識やスキルは「個人で生きる力」の方であると考えています。学校のテストは個人で問題を解きますが、社会では他者と協力して問題を解決しますよね。学校教育で優秀な成績とされた生徒学生が、必ずしも社会で優秀とされなかったり、他者とうまくやれなかったりするのはこのためです。ここでは他者やコミュニティーの一員として生きることが社会で生きることなのです。そもそもなぜ私たちは集まって生活するようになったかというと、その方が厳しい自然環境の中で生き残りやすかったから。今では自然環境ももちろんそうですが、文明が発達した社会では「会社」でお互いに協力してやっていく力が必要ですね。ここでも「社」が出てきました。
社会で生きる力を養う手法は、基本的には「座学による学問教育」と「経験による市民教育」に分かれます。
座学による学問教育をメインとする学校は、カリキュラムの一部として公共という科目で教科などを使い、座学で知識を習得します。また時には模擬投票などで学びます。しかしながら、勉強とはテストの点数を得るためという意識の生徒学生が多い中、テストの点数を取れても、本質的な社会の一員として生きる力は実際の行動には表れていません。その結果の1つが現代日本の選挙の投票率の低さです。
経験による市民教育を重視する本校は、生徒自身が社会の一員として、学校の校則づくりに1票の権限を行っています。本校では市民教育の中心としての民主主義が徹底されており、学校経営、ルールづくり、ルール違反時のミーティング、そして自分のコミュニティーで働く大人を選ぶことにまで生徒にも議決権があります。自分自身によく向きあい、スクールの一員として自ら行動した同窓生たちは、自分と他者を大切にコミュニケーションを取り、社会の一員として生きていきます。それらを学んだ生徒の結果、成人した後も選挙に行く率が高くなっています。
東京サドベリースクールは、個人の自由と市民教育を通して、自身のこと、他者のこと、社会のことを、自ら気づき考え主体的に行動する経験ができます。そしてそのための自由と権利を行使する経験を得るための守られた環境がある。同時に、東京という世界有数の大都市をキャンパスとして、物や人、機会にアクセスする自由さもあります。
だからこそ、自分について、他者について、社会について、本質的な問いと解を生み出し、人と社会との関係を築いていける学校なのです。
(スタッフ 杉山)