子ども時代に“自己を失う”という危機

自己を失うというこの最大の危機が、世間ではまるで何事もないかのように静かに行われている
セーレン・キェルケゴール(哲学者)

こんにちは、スタッフの杉山です。
自己を失い、生産能力をひたすら上げることを求められた人間は、機械とどこが違うのか。
機械でさえ自分で考えるようになっていく世界で、人間が「僕はこう思う」「私はこうしたい」と心を感じることをせず、その知識や技術の能力をひたすら伸ばすということだけをしていて、人間らしいと言えるのか。
今回は、機械ではない人間を人間たらしめている自己について、私が自己を意識できなかった経験、2種類の”自己を失った状態”についてお伝えし、子育てや教育に何ができるのかを考えていただければと思い書きました。

最初に私の話をさせていただきます。私は子ども時代、自分でいい子を選択していたので、自己を失っていました。
そのためか、走ることが好きになり陸上競技を始めた10歳くらいからの記憶はあるのですが、それ以前の記憶があまりないのです。今思えば、「自分がどうしたい」ではなく、「他人がどう思うか」を自分の中心に置いていた子ども時代だったようです。そしてそれは10代も続きました。自分の中心は自分ではなくて他人で、しかも当時そのことに無自覚でした。

20代で働きだした私は、一般的な学校とは違う文脈の、社会の中で「自分は本当は何がしたいんだろう」と悩んで悩んで悩みつくしました。
そして、自分を見つめ続け、10代で自己を失っていたのだと気づいたのは、もっとずっと後の30代になってから。

それまで私は様々なことを自分で決めてきたと思っていました。もちろんどのような仕事に就きたいのかなど、決めてきてもいたのです。
でも根底には、「自分がこうしたい」ということではなく、「他人から認めてもらうためには何を選択すればいいか」というものがありました。それは周りからどうすれば認められるかを過剰に気にする子ども。つまり“いい子”をしていたのです。子ども時代の私にとっては“いい子戦略”が私の生きる道でした。どうもこれは長男・長女に多い傾向のようです。そして私は3人兄弟の長男です。

いい子は幸せか

『幸せな子はいいことをするが、いい子が幸せとは限らない』という言葉をご存じでしょうか。
私は幸せでないとは言わないまでも(むしろ幸福な環境だったと思います)、いい子で皆に認めてもらいやすい反面、自己を失ってきたところがありました。そして幸福な環境にいて家族や周りの人に感謝しながらも、自分の内面は幸せと感じにくくなっていたようです。

セーレン・キェルケゴールのいう自己を失うということは、自分の心の声が聞こえなくなること、自分で考えなくなること、自分より他人を優先し自分を失っていることに無自覚なことを指していると考えます。

元々「こうしたい」という自分の心の声を素直に聞いて、自分で考え、自分で決めて行動している。そして周りからどう見られるのかも健全に意識できている状態。この状態は、中庸であり、毎日同じことをしていても自己を失いづらいものです。

こういうお話をさせていただくと、一般的な教育や学校を、
「そうそう、そうですよね。今の学校教育は自分で考えろと言いながら学校教育のレールを外れたらダメ。決まった答え以外を答えたら不正解とされています。それでは自分で考えているというより、誰かの決めた正解を素早く見つける能力を養っているだけですよね」
と言われる方もいます。

私は今の学校を批判したいわけではありません。他者批判している状態はまた自己を失っている状態でもあります。大切なのは、自分にとって「こうしたい」「ここに行きたい」と、”本当に”自分で決めたかどうか。もし自分で本当に「ここにいきたい」と決めて行っている学校であれば、本人が選んでいます。自分について自覚している状態であり、自己を失ってはいません。

例えば大人が、
「私は以前フランスに行って大好きになった。将来フランスで働きたい。だからフランス語を学ぼう。自分は体系的なカリキュラムを作ってもらって、理論をきっちり学びたい。またネイティブの先生にも教えてもらいたい。だから両方ができるこの学校に通おう」
と考えて、カリキュラムのある学校で学ぶことはとても自覚的です。
「そういうことを言えば、周りが「すごい!」と言ってくれるから」ではなく。

残念なのは、子どもが自分の教育や育ち方を選べることを知らず(私のように)、親も知らずに、特に考えずにその道に進み、本当に興味があることをできず、その社会やコミュニティーに必要なことではない個人のことで興味のないことをやらなければならなくなっていること。
「今はもっとこれをやりたい」という子にそのチャンスがないこと。そして何かを、こつこつと嫌いになっていくことです。

興味を持てば、その人にとって一生の楽しみになるかもしれない。興味を持ち続け、知識や経験が増えていけば、それが突き抜けて仕事になることもある。
でもたまたまその時に興味がないだけなのに、やらされて嫌いになってしまったものは、将来にわたっても嫌いになっていることがあります。それはとてももったいないですよね。

極端に聞こえるかもしれませんが、嫌いになるくらいなら、やらない方がいいことも多いと思います。
それが将来必要になったら、ゼロから始めればいい。語学であればネイティブ並みに話せなくても、目的のためのコミュニケーションが取れればいいと割り切って学べばいい。マイナスから始めるよりよほど効率的で、そして精神衛生にもいいです。そして変なクセもついていない。もし本当に嫌だったら通訳を使ってもいい。そういうアイデアが出ることも大事ですね。1人で何でもやることに慣れてしまうと、そういうアイデアも出にくくなってしまいます。

そしてなによりも、興味のないことを嫌々でもやらなければならない場合は、自分の心の回路をカットしなければやっていられません。心の声を、聞こえないふりをしなければならない。いちいち感じていたらやってられません。それが言葉で訴えられない子や自覚がない子は(大人も)、心や身体の不調という形で訴えたりします。

でも多くの子は、「興味はないけどそういうものだ」とやりすごせてしまうから耐えられるのであって、初めから教育や育ち方を選べたら、もっと違う教育を選ぶ子も増えるはずです。日本でもある時代から大人が家族の仕事を継ぐ以外の選択肢を持ったように。
そして、その中で子どもは自分が生きていくために、必要だと思うこと、やってみたいことはやっていくものです。大人がやりたいことのために学ぶように、子どもにもそういう力があります。

興味・関心・好奇心の力はすごいもので、思考よりも感情の力の方が深いところで人間を動かします。そのため思考を鍛えていても、感情の回路を切ってしまっては、自分はこうしたいという気持ちを感じることがだんだん難しくなっていきます。

もちろん思考も大切です。よく考えてきたので、人類は発展してきましたし、よく考えることはこれからも大切。しかしそもそも「もっとこうしたい」「こうなりたい」という気持ちがなければ、どこに向かえばいいのかわかりません。
そして、必要で行うことも否定しません。必要は発明の母というように、必要だから何かをすることも大事です。

でも自己を失うということは自分の気持ちを失うということと等しい。自分の素直な気持ちを大切にしてほしい。自己とは自分自身、自分の心だと思うのです。

自己を失うことには2種類ある

なお、自覚的に生きはじめ、「これだ」という自分にとっての道が見つかると、また別の意味で自己ということがなくなっていきます。
それは自覚的に自己がなくなっていく。まるで何か大きな運命の中にいて、そうなるようになっていくという感覚です。ただこれらは著名なアーティストや経営者など、何か特別な職業や特別な人だけの感覚ではありません。夢中になった時、誰かのために行動したときなど、誰にでも訪れるものです。

小説を読んでいて、その物語で主人公と一緒に旅をしていた。
お客さんに喜んでもらいたくて一生懸命料理の研究をしていたら何時間も過ぎていた。
絵を描いていたら、自分でも信じられないような作品ができた。

などなど、夢中になった経験は誰にでもあると思います。
逆に嫌々やらされると、そのような夢中にはならないものですね。自分からやるからこそ無に近づいていく。しかしそれは同時に、自分の足で歩んでいるのと似ています。夢中で自分に合った道を歩んでいると、だんだんと自己がなくなっていく感覚。それはその道と一体になっていくからかもしれません。

これらの状態のとき、自己が無くなっていく感覚を得ることがありますが、もちろん冒頭のキェルケゴールの言葉はそれとは違います。

自分を無くせるほど夢中になれる人生を生きるのか。
それとも、自分の気持ちに蓋をして自分を押し込めて生きるのか。

私たちは、どちらの道も選べます。できる・できないかではなく、選ぶか・選ばないか。 選ぶから小さくてもその道に進むことができる。
こういうことを生徒たちにも、スタッフにも、選んで大切にしてほしいと思っています。そして何事も、まずは自分からですね。

スタッフ:杉山

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