同級生との異文化コミュニケーション(賢さとは何か)後編

こんにちは、生徒です。前編に引き続き、後編です。
前編をお読みで無い方は、先に前編を読まれることをお勧めいたします。
同級生との異文化コミュニケーション(賢さとは何か)前編 

あらすじ

一般的な中学校に通っている友人と児童館へ行く
  ↓
児童館に着くと、なんと私が籍を置いている地元の中学校の同級生と出会う
  ↓
その同級生と児童館の職員さん、友人と私で机を囲んで雑談をするが、話がわからない
  ↓
職員さんの質問と同級生と友人の会話を聞いていて「賢さとは何か」と疑問を抱く
  ↓
一人で考え込んでいると児童館に5時のチャイムがなる

ここから始まります。

賢さとは何か2

この日行った児童館では5時になると帰らなければいけないというわけではありませんが、
一部の部屋が使えなくなります。
それもちょうど、雑談をするのに使っていた部屋が使えなくなるようです。

職員さんは使っていた部屋の戸締りに出て、私と友人と同級生の3人は、近くの別の部屋に移動しました。
私があまり話さないので、同級生と友人2人はなんだかぎごちなさそうに話してします。

移動を終えて席につき、落ち着いたところで私は一人また考え事を始めます。

前編の最後に抱いた2つの疑問、
①学問的な賢さだけで人を賢いと一概に言って良いのか?
②そもそも賢さとはなんだろうか?

この2つに、まず私なりの結論を出してみました。
①いいえ
②認知能力と非認知能力を含めた多面的な角度から見た総合的な頭の良さ
です。

①の結論に関しては、そのままです。
学問的賢さだけで人を賢いと言い切ることはできないと私は考えました。
なぜなら、成績が良くても人のことを見下したり、自分勝手であったり、
幼稚な考えの人を見たことがあるからです。

私の場合は卒業した小学校内や、友人の話からも、このような人を見聞きしてきました。

いくら成績が良くても、立ち入り禁止区域に入っていたずらしたり、
メールでたくさんの人に酷い言葉を投げかけたり、
自己顕示欲を満たそうとして他人に迷惑をかけるような人が賢いとされることは少々納得がいきません。

学問的な知識があまりなく読み書きなどが曖昧だとしても、他者を尊重したり、
責任感を持って発言したり、人を思いやることのできる人の方が、私には賢く映ることがあります。

ですので私の経験からお伝えさせていただくと、
学問的賢さだけで人を賢いとは言い切れないと考えました。

では次に②の結論に関してですが、
「賢さとは、認知能力と非認知能力を含めた多面的な角度から見た総合的な頭の良さである」
というように私は考えました。

これは先ほどの①にも共通するものがあると思いますが、
学問的な賢さ(認知能力)などがいくらあったとしても、
人とやっていく力(非認知能力)が欠けていると人間関係に支障が出てきやすくなってしまう。
というように認知能力などの学問的賢さだけを「賢さ」と総称するのは違うと考え、
他にも多面的に見たときに、その人にある能力、
例えば認知能力と非認知能力以外に、社会に出たときにうまくやれる力(社会的適応性)や
物事を論理的に考えられる力(論理的思考)などのその他の能力も総合的に見て
賢さというものは定められるのではないかと私は考えました。

と色々お伝えさせていただきましたが、ポイントはバランスなのかなと思います。
あくまでこれは私の例ですが、認知能力・非認知能力・社会的適応性・論理的思考・地頭力などの能力が
バランスが良く優れていることこそ賢さである。というように私は結論付けました。

もちろん一概に言えることではないでしょうし、あくまで私の中の個人的結論ですので
そのあたりは温かい目で見守ってただけると嬉しいです(笑)。

自分の中で簡易的にでもこの結論を出せたことで、自分と小学校の頃の同級生との認識の違いを理解することができ、
疑問も解くことができました。
と、1人で自己満足していましたが、さすがに周りとの空気感も微妙になってきたので、
やっと自分から2人に話をまわし始めました。

環境は違えども

これまでの文章だけを見ると、私が1人黙々と考え事をしていたように見えてしまうと思いますが、
私は考え事をしている間も、何とはなしに相槌を打ったり質問をしたりして、
頭を回転させながらも会話自体は成り立たせようと努力しました。

ですが、別のことも考えていて言葉数が減るのは必然ですので、空気感が微妙になっていきました。

考え事の結論が出てスッキリした私は、その後積極的2二人から会話を引き出し、
帰る時間まで延々と3人でカードゲームなどしながら話し続けていました。

その後は友人の学校のやんちゃな同級生の話、
私と友人が通っていた小学校から中学校に進学したクラスメイトのその後、
児童館で今度行うイベントの話などを話していました。

所々話についていけないところもありましたが、
別段盛り上がらず盛り下がらずな空気感はとても心地よく感じました。
そもそも、初対面の人とこれだけ長い間会話したのは久しぶりです。
ですので、なんだかんだと満足して、帰る時間になり友人と暗くなった道を帰りました。

友人とこの1日を振り返ると、友人は「心身ともにちょっと疲れた」と言っていました。
考えてることはそんなに変わらないな〜、と頭の中で思い、若干安心しました。

私は今まで、一般的な学校に通う同級生ぐらいの子とは、
ほとんどの場合話が噛み合わないだろうと考え積極的な交流をしてこなかったのですが、
今回のことでわかったのは、話す内容はともかく波長が合えば
初対面でも普通に仲良くコミュニケーションが取れるということです。

当たり前のことかもしれませんが、私にとっては大きな気づきでした。
このことでさらに交流を増やそうとは思いませんでしたが、先入観が少しでも抜けてくれれば
それだけでも進歩です。

環境が違う人でも根底にあるものが合えば、お互い意思疎通がうまくいくのかもしれない。
そう考えられるようになった1日でした。

まとめ

今回は私がプライベートで友人と児童館に行った時の体験と、
その中で考えたことを書かせていただきました。

振り返ってみると、「賢さとは何か1・2」の部分はほとんど
児童館や同級生になるかもしれなかった子との遭遇に関係ありませんが、
この疑問を抱くきっかけとしてこの一連の場があったと思っていただければと思います。

この「賢さとは何か」という疑問に、小学生の時は、
「学問的賢さ」と「日常的生活での賢さ」は違うと主張していたことをいまだに覚えていて、
今になって改めて考えたことを書かせていただきました。
(むしろこちらの方が本編であるぐらいの熱量で書いてしまっていますね)

サドベリーに通っていると、サドベリースクールと一般的な学校がどの程度違うのかを時々忘れてしまい、
いざこのように同級生(になるかもしれなかった人)と会話すると、お互いの「常識」が違うので
まるで異文化に触れたような感覚になります。

以前も「違いを知って気づく」という記事で似たようなことを書かせていただいていますが、
それだけ毎回カルチャーショック的なものを感じます。

どうしたら、環境や常識観念の違う人とうまくコミュニケーションを取れるようになるのか、
という疑問の答えはこれからも模索していくように努めようと思います。

お読みいただきありがとうございました。

(生徒)

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