同級生との異文化コミュニケーション(賢さとは何か)前編

こんにちは、生徒です。

価値観や考え方というのは自身の環境に影響を受けやすい、というお話は、
私が過去に欠かさせていただいた記事でも、幾度か扱ってきたテーマだと思います。

それだけこのテーマは私の中で関心があり、面白いと思うものです。

そしてこのテーマに関心を向けるきっかけは、およそいつも、
自分と全く異なる価値観や考え方をしている人とコミュニケーションをとることから始まります。

私の場合、それが一般的な学校に通っている同級生と会話した時だったりします。

先日、公立校に通っている友人と近所の児童館に出向いたことがあります。
本来の目的は卓球をしにいくことでしたが、案外思いも寄らない出来事があり、
面白かったので今回はその時の体験談をお伝えしようかと思います。

(以前書いた「違いを知って気づく」という記事に内容が似ている部分が多いかもしれません。ご了承ください。)

偶然の出会い

この日一緒に児童館に行った友人は、一般的な学校に通っている中学生男子でした。
私が小学生の頃から交友のある友人です。

この日は卓球がしたいという意見が互いに一致したので、卓球台のある児童館に足を運ぶことにしました。

児童館に着き、数十分卓球をしたあと、待っている人に順番を変わりました。
私たちは卓球をするという選択肢が無くなったため、あてもなく同じ階をうろうろし始めました。

そして上着を置こうと思い荷物を置くことのできる部屋に入ると、
何やら同級生ぐらいの歳の女の子が、児童館の職員さんと
こちらを見てコソコソと話していることに気がつきました。

不思議に思いながらも一度廊下に出て友人と話していると、その2人がこちらに話しかけてたのです。
「暇そうだったから話しかけてみた」とのこと。
急展開ですが、なぜかその時の私と友人は冷静で、そこまで2人に対して言及しませんでした。

なんとなくお互いに自己紹介をして、やることもないのでまた部屋に入り、
その子と職員さんと4人で机を囲んで雑談をすることになりました。
自己紹介で分かった重要なことは、同級生ぐらいのその子は
なんと私の籍のある中学校の、正に同級生だったことです。

これが思いもよらぬ出来事の始まりです。

環境が違うことによる弊害

いざ机を囲んで話すものの、同級生と職員さんの会話はあまり耳に入ってきませんでした。
なぜなら一般的な学校に通っている前提の話がほとんどだったからです。

もちろんそれ自体はおかしいことではありませんが、
私は中学校内の事情など全く知らないため話の内容がわかりません。
そのため友人の後ろで会話を聞いていました。

一応自己紹介の時に、籍を置いている学校(中学校)と、
今実際に通っている学校(サドベリー)が違うことは説明しましたが、
サドベリーが明確にどんな学校か伝えていなかったので、
一般的な学校の話が中心的になるのは仕方ありませんでした。

ちなみに同級生の子は比較的活発的な子のようで、会話を回すのがうまく、なんでも聞いてきます。
その子と友人とは、なんとなく境遇も似ているので話が合ったのか、会話が途切れることなく続いていました。

しばらくすると寡黙な私を見かねた職員さんが
「A中学校(籍を置いている学校)に行っていないなら、どこに通っているの?偏差値は高い方?」
と質問してきました。

私はこの質問を聞いて久しぶりに「偏差値」という概念があることを思い出し、ハッとしました。

どう説明したものかと頭を抱えましたが、
卓球をして疲れた頭ではサドベリーのことを詳細に説明するのは難しいと判断し、「自分に合ったいい学校に通っています」
とだけ伝え、言及される前に半ば無理やり会話を終わらせました。

この一連の流れを客観的に振り返ってみたら、
自分自身を、主張している内容をうまく表現できなくて萎縮してしまう
外国人観光客のような印象を自分に抱きました。

こういうことがあるので、正直にお伝えすると私は「学生」として話さなければならない場があまり好きではありません。

同じ学生でも一般的な学校とサドベリーの環境の違いが大きいため、
一般的な学校の話となると、サドベリー教育を知っている前提がなければ
まずどこから話したものかと、説明に困ってしまいます。

サドベリーに通っていて思い浮かぶ数少ないデメリットの中に
一般的な学校に通っている前提で話されると、説明に困る点があるかもしれません。
人によって気にするかにもよりますが、そんなことを考えさせられた出来事でした。

賢さとは何か1

私と職員さんが話している間、友人と同級生は、
「学校では誰々が成績トップで賢い」とか
「一見問題児に見える子も何故かテストで点が良くて意外と賢いんだよね〜」
などの内容を含め、他愛ない話していました。

その会話と職員さんの質問を聞いていて、私にはある疑問が浮かびます。
人の賢さとは何か、と。

振り返ってみると、
サドベリーに通ってから思う「賢さ」と、公立のような一般的な学校に通っていた頃に言われていた「賢さ」というものが、
まったく違うものではないかと、今までの話の中で気づいてふと疑問に思ったのです。

実はこの疑問は私が小学生だった頃に思案に暮れていた内容でもあります。

私が小学生であった頃を遡ると、
当時の小学校の環境は上記の友人と同級生の会話に出てくる内容に似ていて、
「学力=賢さ」という考え方が私の学校では普遍的であったと思います。

ですので、どれだけ授業妨害をする子であっても、人を貶して蹴落とそうとする子も、
なんであれテストの点数が良ければ賢いとされ、テストの点数が悪い子よりも優れていると
考えられていました(生徒の会話間では)。

2人の会話を聞いている限り、その考え方は2人の中では未だ健在なようです。

この点、「学力=学問的賢さ」というように言葉通りの意味ならいいのですが、
私の通っていた小学校と2人の会話間では「学力=その人の総合的な頭の良さ」と捉えられていたように
私は思います。

サドベリーに通って見てきた中では、
一般的な学校の経験がなくても社会常識を心得ていて他者を尊重し過ごすことができる子がいますし、
年少でまだ読み書きなどがあまりできなくとも、話し合いの中で責任感を持って発言する子もいます。
人の良さとはそれぞれです。ですので、色々な角度から色々な能力を見ることができるようになったと思います。

ですが小学校の同級生間では、学問さえ極めていれば「賢い」という空気感があり、
その人の日頃の行いや性格以上に成績が生徒間では重視されていたように思います。

そのようにして学問的賢さだけで人を賢いと一概に言ってしまって良いのでしょうか?
そもそも賢さとはなんでしょうか?
そんなことを悶々と考えている間にも、私の周りでは時間が流れ、
とうとう児童館に5時のチャイムが鳴り響きました。

後編に続きます

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