written by parents
蓑田雅之

常識の鎖を裁き切り自由な思考の中へ解き放ってくれる。
保護者にとってもサドベリー教育は自分と向き合う機会をくれる。 

「東京サドベリースクールには、先生がいません。授業がありません。生徒たちは一日中、学校で好きなことをやって過ごしています。」

入学する前、スクールの説明会に参加すると、保護者はスタッフからこのような話を聞かされます。そして、ここでたいていの親御さんが驚かれます。私と家内も驚きました。「先生も授業もない、こんな学校が世にあるのか!」とびっくり仰天したものです。

 そして、驚きの次に頭に浮かんだのが、「子どもが勉強しなくて大丈夫か?」という疑問でした。こんなことは、それまで一度も考えたことがありません。なぜなら、「子どもは学校に行って勉強するもの」と当たり前のように思っていたからです。

サドベリー教育の斬新さというか、先見性というか、あるいは過激さというか、いままでの常識をすべて覆してしまうような教育方針に、まったくもって面食らいました。そして、ここから親としての苦悩が始まりました。真剣に、切に、自分の子が「勉強しなくていいのか? 本当に大丈夫か?」と考えるようになったのです。

スクールのスタッフは熱心にサドベリースクールの「教育理念」を語ります。ボストンサドベリーを立ち上げたダニエルさんの本にもすばらしいことがいっぱい書いてあります。たとえば、子どもをどっぷりと「退屈の海」に浸けるという話。サドベリースクールに入って自由を得た子たちは、はじめは嬉しくてゲームをしたり、遊んだりするのですが、やがて退屈するようになり、自分と向き合うようになるそうです。そして、自分のやりたいことを見つけ、人生の第一歩を踏み出すというのです。

この説明に「なるほど、すばらしい!」と頷く一方で、どこかに「我が子は果たしてそうなるのか?」と疑っている自分がいました。学校はいろんな事例を挙げて説明してくれます。お料理をするのが好きで、いつもキッチンに立っていた女の子が、卒業後にケーキ屋さんに就職したという話。自分でパソコンをいじりだすうちに、大人顔負けにパソコンに詳しくなった子の話……。そして、別のサドベリースクールのホームページには「自ら勉強し、中学・高校の数学の学習を短期間で終えてしまった子」の話が載っていました。また、説明会に出てくる子たちも年齢の割にはしっかりしていて、自分の意見を持っているように見えました。

こういった「成功例」はどれもすばらしく、頭では“良さ”が理解できるのですが、しかし心の底から頷けるかというと、そう簡単にはいきません。「本当にみんなそうなるの?」「学校はうまく行ったケースだけを選んで紹介しているんじゃないの?」「中にはダメになった子もいるのでは?」という疑念が湧いてしまうのです。

今となってはこのように「先の結果」を考えること自体が間違いだということに気づいていますが、しかし、当初は「この学校に子どもを入れてどうなるんだ」という不安が先行し、どうしても先のことばかりを考えてしまいました。いや、しかし、人の親としてこれは当然のことではないでしょうか。親であれば子が可愛いのは当たり前。学校は子どもがどうなっても責任を負いませんが、親は自分の子に100%責任を負わねばなりません。学校と親とではそもそも立場が違います。学校はあくまでも一般論でしか物事を語りまませんが、親は「我が子」という個別のケースで物事を考えます。だから、学校がいくら「成功例」を出してきても、親としてそれを鵜呑みにできないのは当然の話です。

この「勉強しなくて大丈夫?」という問いかけは、子どもがサドベリーに通うようになってからも、しばらく私の中で続きました。この問題は私たち夫婦の間で最大の関心事となり、何度も妻と話し合いました(ときには口論にもなりました)。そして、これはかなり後になって気づいたことですが、このように夫婦で子どもの将来と向き合い、真剣に話し、考えること自体が、実は保護者にとっての「サドベリー教育の価値」のひとつだったのです。

もし仮に息子が公立の学校に通っていたら、あるいは私立の中学に通っていたら、私たち夫婦はこんなにも真剣に子どものことを考えたでしょうか。彼の将来について悩んだでしょうか。「授業がない、先生がいない」という教育の非常識から生まれた「勉強しなくて大丈夫?」という問いかけが、私たちの目をグッと見開かせ、子どもの方に向けさせたのです。

実際にサドベリースクールの保護者たちと話してみると、多くの方がとても真剣に子どものことについて考えていることに気づかされます。普通の学校の保護者であれば考える必要のないことにまで、深く考えを及ばせる必要が出てくるからでしょう。

アインシュタインがこんなことを言っています。「常識とは18才までに身に付けた偏見のコレクションのことをいう」と。常識は社会にとって大切な面もありますが、ときとして人間の頭を思考停止に追い込みます。サドベリー教育の「非常識」は、私たちをがんじがらめにしている常識の鎖を裁ち切り、自由な思考の中へと解き放ってくれるのです。

自由の中で、悩み、考え、自分なりの答えを見いだしていく。生徒だけでなく、保護者にとっても、サドベリー教育は自分と向き合う機会を提供してくれるのです。

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