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蓑田雅之

「子ども扱いすること」がかえって「子どもを子どもの中に閉じ込めている」
勇気をもって子どもの独立した人生を認めること。

「サドベリー教育」が最も大切にしていることは、子どもを親とは独立した一個の人間として認めることであるということを前回書きました。それはつまり「子どもを100%信頼し、すべての選択を子どもの判断に委ねる」ということです。たとえば東京サドベリースクールに入学するときは、たとえ小学校に上がる前の子でも、その子の意志がなにより尊重されます。親は子を「サドベリースクールに入れる」のではなく、「子がサドベリースクールを選んで入る」のを承認する形になるのです。 また、スクールに通うようになってからも、サドベリーには授業がないので、子どもたちは自分の好きなことだけをします。誰からも「こうしなさい」とか「こうした方がいいよ」と指図されることはありません。学校で何をして過ごすかは、すべて子どもたちの自由意志に委ねられます。

そして、ここで常に問題になるのが、「子どもにすべての選択を任せて大丈夫か」ということです。確かに子どもには未熟なところがあります。経験や知識も少ないし、客観的な視野に立って物事を冷静に判断することは苦手かもしれません。そんな“頼りない”子どもに、「すべての選択を任せて大丈夫?」と心配になる親の気持ちはよく分かります。

でも、それでも、私はあえて子どもの力を信じたいと思います。彼らには大人と同等の判断力があり、自分の人生を自分で選び取る能力があると思います。なぜそう思えるのか。それは、大人が「子ども扱いすること」が、かえって「子どもを子どもの中に閉

じ込めている」のではないかと考えるからです。子どもは本来、小さなうちから物事を判断し、自分の人生を選び取ってく力を有していると思います。その力を奪い、子どもをいつまでも“頼りない”存在にしているのは、周囲にいる大人たちの「子ども扱い」なのではないでしょうか。

たとえば、戦後の日本の孤児たちや、途上国の子どもたちを見ていると分かります。必要に迫られると、子どもはとてつもない能力を発揮し、大人顔負けの生命力で、逞しく生き抜いていくものです。また、ゴルフの石川遼やスケートの浅田真央、テニスの錦織圭など、10代で活躍した選手たちを見ていると、まったく子供っぽい印象がありません。なぜ彼らの発言は大人びていて、立派なのでしょう。それはたぶん周囲にいる大人が勝負の世界に生きる彼らを「子ども扱い」しないからだと思います。

そして、もうひとつ「子どもを子どもの中に閉じ込めている」ものが現代にはあります。それは学校教育です。学校が子どもを必要以上に「子ども扱い」するために、卒業して社会に出るまで、子どもは大人になることを自らやめてしまうのです。昔の日本を考えてみてください。子どもは小学校を出たら、すぐに社会に出て働いていました。10代で彼らは十分に実社会で役立つ即戦力になっていたのです。

また、かつての「元服」の年齢は「11歳から17歳の間」だったそうです。結婚する年齢も、平安時代は男性で17歳~20歳ぐらい、女性で13歳~15歳ぐらい。10歳を超えれば、昔の社会ではすっかり大人扱いされていたわけです。それが今ではどうでしょう。元服にあたる成人式は20歳。大学を出て会社に就職するまでは、ヒゲの生えた立派な青年でも社会は「子ども扱い」をします。

私は思います。子どもの潜在能力を奪っているのは、むしろ親や学校なのではないかと。「あなたはまだ子どもだから」「子どもは黙って聞いていなさい」「それは大人になってから考えることよ」などと言い、子どもから「自ら考え、選択する力」を奪っているのです。それでいて、「今の子は自立していない」「指示待ちばかりで自分で考える力がない」などと言われるのですから、子どもにとってはいい迷惑です。

東京サドベリースクールでは、周囲から強制的に勉強させられることはありません。体育や音楽の授業もありません。子どもには好きなことをやっていい「自由」が与えられます。でも、この「自由」は一般の学校にある休み時間の「自由」とは違います。それは自らに「責任」が伴う大人としての「自由」なのです。

スクールには算数や国語の授業がありません。なので、勉強しない子はいくつになっても計算や読み書きができません。「計算できないのはいやだ」と思えば算数を勉強すればいい。「本が読みたい」と思えば読み書きを勉強すればいい。これがサドベリー流の考え方です。勉強が自分にとって必要かどうかは自分で考えなさいということです。

一見「何をやってもいい」と甘やかしているように見えますが、自分の将来に完全に責任を負わなければいけないという点において、非常に「厳しい」教育といえるのです。このような環境で子どもに身につく力を、私は信じたいと思います。それは自分にとって必要なものとそうでないものを「見分ける力」であり、自分の判断において選んだことに対して「責任を持つ力」です。

変化の激しいこれからの社会においては、まさにこのような「自分で物事を判断し、決めていける力」がものを言うようになってくると思います。自分の判断において子どもが自ら選択し、歩んでいった人生の先に、どのような未来が待っているのか、それは誰にも分かりません。でも、ひとつ言えるのは、どんな未来が待っていようと、それは子ども自身が選び取ったものだということ。その結果に対して、子どもは胸を張って責任を取ることでしょう。

息子が東京サドベリースクールに通うようになって、私はひとつの決断をしました。それは「子どもにとって何が幸せか」を考えることをやめること。そして、息子の人生をそっくり彼に手渡してあげること。そうすることで、子どもは見違えるほど、「自分で判断」し、「自らの人生を決めていく力」を獲得していくはずです。勇気をもって、子どもの独立した人生を認めること、それが「サドベリー教育」だと私は思います。

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