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蓑田雅之

「反抗することがないからだよ」
反抗期が必要と考えるのは日本ならではなのでしょうか。

そう、反抗期がない。

多くのサドベリースクールに通う保護者の方と話してみると、このような話題がよく出てきます。もちろん、すべてというわけではありません。全体としてサドベリーに通う子どもは反抗期が少ない傾向にあるということです。

私の息子も中学3年生の年齢ですが、いわゆる反抗期のような態度は示しません。なぜ反抗しないのか? 息子に聞いてみるとシンプルな答えが返ってきました。

「反抗することがないからだよ」

この連載で何度も書いてきましたが、私は、親子は「上下の関係」ではなく、人間として「横並びの関係」であるべきだと思っています。そしてまた、子どもは親とは独立した一個の人間だと考えています。冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、血は繋がっていても親子は別人です。

私は息子の人生を、息子にそっくり預けました。自分で将来に責任を持つのであれば、何をやってもいい。勉強してもしなくても、自分の趣味に没頭しても、一生ゲームをやりたければとことんゲームをやればいいと言っています。学校でも、家庭でも、何をやってもいいということになると、反抗する理由がなくなります。だから反抗しないというわけです。

そもそも「反抗期」という言葉には違和感を覚えます。「反抗」という言葉には、親が正しくて、子が間違っているという考えが前提として含まれているからです。なぜ、親の言うことが正しくて、子の言うことは間違っているのか。その根拠はどこにあるのか。「反抗」という言葉の根底には、子どもは親が管理するものという考えがあるように思います。

しかし、これはある一面で正しくもあるのです。「親子は対等」と書きましたが、それが当てはまらないケースもあるからです。お店でいえば、店長とスタッフの関係です。何か不祥事が起きた場合、責任を取るのは店長です。だから、スタッフはある程度、店長のやり方に従う義務があります。つまり、問題になるのは責任の所在です。責任の所在がどこにあるか。それが親にある場合は、やはり子は親の言うことに従わねばならないと思います。

こう考えると、親の権限の範囲は意外と明確になってきます。たとえば、子どもが将来何になるか、なりたいか、といったことは、親が関与すべきことではないでしょう。子どもの人生は子どものものなので、責任の所在は子どもにあるからです。だから、勉強するかしないか、進学するかしないか、ゲームをやるかやらないか、といったことの判断は、すべて子どもにまかせればいいのです。

一方、子どもにまかせておけないこともあります。たとえば、犯罪や事故です。子どもが罪を犯した場合、未成年者なので、責任は保護者である親にふりかかってきます。喧嘩や事故で相手に怪我をさせたときも、やはり親に責任があります。子どもが窓ガラスを割っても、賠償責任は親に生じます。

だから、こういうことは子どもの勝手にさせるわけにはいきません。特にドラッグや、SNSの使い方など、失敗すると取り返しのつかなくなるような件に関しては、むしろ口酸っぱく注意すべきだと思います。「うるさいな」と思われても、ここは言うべきだと思います。それ以外のこと、つまり子どもが自分で責任が取れる範囲のことは、子どもの自由にさせたいと思います。多少失敗しても、それは人生のいい経験になるでしょうから。

私はサドベリー教育を知るまで、人間には誰しも反抗期が来るものだと思っていました。反抗期は大人になるために必要な誰もが通過するステップのひとつであり、むしろ反抗期がないことの方が問題かもしれないと。でも、それはどうやらアインシュタインがいうところの「人が18歳までに身に付けた偏見」のひとつだったようです。

私の姪は日本生まれですが、イギリスで育ち、イギリスの大学に行きました。昔、彼女に聞いたことがあります。「イギリスの子どもにも反抗期はあるの?」しばらく考えたのち、彼女はこう答えました。「反抗期ねぇ、あんまり聞いたことないけどね」と。

人間が成長していくための過程に反抗期が必要と考えるのは、ガラパゴス化した日本ならではの特色なのでしょうか。

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