written by parents 蓑田雅之 |
親ではなく、子ども自身が自分で考えるべき問題。
「子どもの人生を、子どもに完全に委ねる」親はその覚悟を。
息子が東京サドベリースクールに通うようになってからというもの、私自身の中で、「教育とは何か」ということが一つのテーマとなりました。
「子どもはなぜ学校に通わなければならないのか?」
「なぜ学ばなければならないのか?」
あまりにも基本的すぎて、一度も考えたことのなかった問題です。そしてまた、自分の子が「勉強しなくて大丈夫か?」ということについても、真剣に考えるようになりました。「義務教育」を放棄して、授業もない、先生もいない学校に通うのは、あまりにもギャンブルすぎやしないかと。
恐らく多くのサドベリーの保護者が、スクールに子どもを入れる前に、この問題で悩まれたことでしょう。
「サドベリーに入って、自由になるのはいいけれど、子どもがゲームにはまったらどうしよう……」
「サドベリーは文科省から認可されていないので、中学卒業資格しか得られない。中卒の資格で社会に出て生きて行けるのだろうか……」
ネガティブなことばかりではなく、ポジティブなことも頭に浮かびます。
「サドベリーの自由な環境の中でのびのび過ごせば、息子は自分の好きなことを見つけ、夢に向かって進んでくれるはずだ……」
「普通の学校では得られない経験をして、自立した考えを持った素敵な子に育ってくれるに違いない……」
「勉強しなくて大丈夫?」という問いからは、それはもういろんな考えが頭に浮かびました。子どもの将来についてさまざまなケースを想定し、心配してみたり、安心してみたりしたものです。
ところが、ある時、ふと気づいたのです。そもそも、こういうことを考えること自体、ナンセンスではないかと。「勉強しなくて大丈夫?」なんて、そんなことはいくら考えても分かりっこありません。「勉強しなくて大丈夫?」という心配があるのなら、逆に「勉強すれば大丈夫?」という反問もできます。学校で勉強して、一流の大学に行って、一流の会社に就職できれば、それで人生は大丈夫なのか……と。
こう考えると物事の本質が少し見えてきました。サドベリーに通おうが、普通の学校に通おうが、大丈夫か否かなんて誰にも分からないのです。そう思ったところで、私の頭に疑問が浮かびました。「あれ? 自分は一体サドベリーに何を期待しているのだろう」と。心のどこかで、「子どもがサドベリーに通えばすばらしい人間に育つのでは」と 思っていたのではないかと。
自由に、あるがままに生きられる学校。そんな学校で過ごせたら、退屈なカリキュラムのある普通の学校に通う子より、個性的で、のびやかな人間に育つのではないか……。でも、こう考えるのも、たぶんちょっと違うのだと思います。それは「有名私立に通えれば、いい大学に入れる」と考えることと似たりよったりの思考回路かもしれません。
学校は電子レンジではありません。子どもを中に入れ、スイッチを押せば、立派な子に育つなんてことはありえません。どんな学校でも同じです。サドベリーだろうが、普通の学校だろうが、伸びる子は伸びるし、伸びない子は伸びないのです。いや、そもそも子どもに“伸びる”ことを期待すること自体、間違っているかもしれない。なぜ子どもに期待してはいけないか? それは前にも書きましたが、「子と親は対等な関係であるべきだ」と思うからです。対等な人間に対して何かを期待するなんて、親子の間でも少し失礼ではないでしょうか。
たとえば子どもから「パパはもう少し立派な人間になってほしいな」とか「お金持ちになってくれたら嬉しいな」なんて期待されたらどう思います? 人から期待を寄せられることってありがたいことですか? 私は迷惑なんじゃないかと思います。子に対しても同じです。「逞しい子になってほしい」「個性的な子になってほしい」「夢に向かって生きてほしい」などと親が期待するのは、余計なことではないか。子どもとしては、「うるさい、ほっといてくれ」となって当然でしょう。こうして私は、少々極端な言い方ですが、「学校に何かを期待してはいけない」「子どもに何かを期待してはいけない」と思うようになったのです。子どもは親の所有物ではありません。独立した一個の人間です。そして、子どもの人生は子どものもの。決して親のものではありません。
だから、親が勝手に期待したり、心配したりするのは、子どもにとっていい迷惑なのです。「勉強しなくて大丈夫?」ということは、親ではなく、子ども自身が自分で考えるべき問題なのです。そう思ったとき、ハッと気づきました。「なるほど、ここにサドベリー教育の真髄があるのか」と。子どもを、親とは独立した一個の人間として認めること。子どもの人生を、子どもに完全に委ねること。その「覚悟」を持つことが、サドベリースクールの保護者にとって大切なことではないでしょうか。子どもにすべてを委ねることは、「子どもを100%信じる」こと。勉強するかしないか、ゲームをするかしないか、本を読むか読まないかは、親が考えることではなく、子どもが考えることなのです。
と、このように言うと、たいていの場合、次のような質問が返ってきます。
「子どもにそんな判断力があるのか?」
「子どもにすべてを任せて大丈夫なのか?」
私は大丈夫だと思っています。というよりむしろ、なるべく早い時期から、すべての判断を子どもに任せた方がいいと思っています。その理由については次回書くことにします。
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