written by parents 蓑田雅之 |
理想論はあくまで一般論。
サドベリー教育は「世界で一人しかいない自分を認めてくれる教育」です。
つくづく思いますが、子育てって難しいですよね。とくに新米の親にとっては初めてのことばかりで、どうしていいか分からないことがいっぱいありました。うちの子の場合は夜泣きが激しくて、寝かしつけるのに苦労したことを覚えています。ようやく寝たかと思い、ベッドの上にそろりと置くと、すぐに気がついてまた火が付いたように泣き出すのです。感受性が強く、人見知りもあって、育てるのが難しいなぁと感じていました。それで私と家内は、子育ての悩みや迷いを解消するために、さまざまな育児書を買って参考にしようと思いました。
ところが、この育児書というものがくせ者で、読むとかえって迷いが生じてしまうのですね。なぜなら、本によってまったく正反対のことが書いてあるからです。たとえば授乳です。おっぱいは早くやめた方がいいという本があれば、自分でやめるまであげていいという本がありました。夜泣きについても、放っておいた方がいいという本があれば、抱き上げた方がいいというものもありました。人によって言っていることが違うのです。
そこで気づいたのは、「専門家の言うことはあくまで一般論にすぎない」ということ。当然のことですが、専門家は世の子どもを一般化して自説を主張します。平均化された架空の「子ども」という存在を前提にして物事を語るわけです。ところが子育てをしているこちらは、「我が子」という個別のケースで物を考えるわけです。平均化された架空の「子ども」の話が、個別のリアルな「我が子」に必ずしも当てはまらないのは当然のことなのです。
たとえば日本の女性の平均身長は158センチです。だからといってすべての女性が158センチ用の服を着ますか? 男性の靴の平均値が25.5センチだからといって25.5センチの靴を履きますか? 個別のケースに一般論を当てはめるのは無理があるのです。こう考えると、「理想の子育て」なるものがこの世に存在しないことも分かります。理想論はあくまで一般論にすぎないからです。誰かの子育て論がすばらしいからといって、それが必ずしも我が子に通用するとは限りません。
とはいえ、そうは分かっていても、つい理想を追い求めてしまうのが親の性。どうしても他の人の子育ては気になってしまいます。そして、他の人の子育てを気にするあまり陥ってしまうのが、「人と比べる」という愚行です。
「〇〇さんちの子はもう歩いたらしいよ」とか「言葉を喋ったらしいよ」とか、早熟な子の話を聞くたびに羨望の思いが生まれ、「うちの子はなんで遅いんだろう」と焦りが生じてくるのです。今になって思えば、立ったり歩いたりは個人差で、一二ヶ月の違いはどうってことありません。いや、当時も理屈では分かっていたのですが、どうしても我が子を他人と比べてしまい、そのたびに(愚かにも)優越感を抱いたり、劣等感を抱いたりしたものです。
「人と比べる」ことがなぜ愚かかというと、これも平均値の話と同じです。日本には100万人ぐらい同世代の子がいるので、遅い子もいれば早い子もいるのですから、その中のひとりと自分の子を比べるのはまったく意味のないことです。「我が子は我が子」と超然としていればいいのです。そういうわけで私たちは、息子を他人の子と比べることをやめました。人の子より遅かろうが、早かろうが、それは彼の個性だと思うようにしたのです。ところが、世の中にはそうやって「我が子は我が子」と超然としていられない場所があります。それが学校というものでした。
学校は子どもという存在を「平均値」で考え、子ども同士を「偏差値」で比べる場所です。世界にひとりしかいない個性的な「我が子」に、「平均値」と「偏差値」を押しつけてくるのです。先にも述べましたが、うちの子は感受性が強く、いろんなことに敏感に反応するタイプでした。反面、物事をよく考えたり、ユニークな発想をしたりという個性的な一面もありました。
この個性的な「我が子」を、「平均値」と「偏差値」が支配する学校に入れていいものかと、私たちは真剣に悩みました。彼の持っている尖った面は、平均化を重んじる学校では突起物となり、削り取られてしまうのではないかと心配したのです。子どもは一人ひとりが違って当然。なのに学校は、自分たちが勝手に思い描く「子ども像」にすべての子を押し込めようとするのです。まるで規格からはみ出た野菜を許さない農協の野菜箱のようです。
それが嫌だったので、私たちは小学校の段階から、公的な学校教育を選ばずに、オルタナティブな選択肢を探しました。そして結局、私の息子は、小学校は東京コミュニティスクール(TCS)というNPO法人の学校を選び、中学校からは東京サドベリースクールに通うことを決めました。
この2つの学校はどちらも「個の尊厳」を大切にしてくれる学校です。架空の「子ども」という平均値で物事を語らずに、世界にひとりしかいない目の前のリアルな「子ども」と向き合ってくれる学校です。
「先生がいない、授業がない、自由に過ごせる」等々、センセーショナルな面でサドベリー教育は語られがちですが、私は違うと思います。「サドベリー教育」の本質的な価値は、「世界にひとりしかいない自分を認めてくれる教育であること」ではないでしょうか。
この世に「子ども」という子どもはいません。一人ひとりが違う子どもです。その一人ひとりの個性を尊重するからこそ、サドベリーに通う子たちは、農家の直売所の野菜のように、でこぼこであっても味わい深く育つのです。人間味の濃い人間に育つのです。
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