written by parents
蓑田雅之

子はもちろん未熟ですが、親もまた未熟です。
親が追う「責任の重大さ」と「自覚の足りなさ」のギャップ。

「親とは何か?」息子が東京サドベリースクールに通うようになってからというもの、私の頭からはこの問いがずっと離れなくなりました。先生も授業もないという特殊な学校との出会いによって、「教育とは何か」という根本的な問題に直面し、そこから「親とは何か」について考えるようになったのです。

そう、「教育とは何か」という問いは、「親とは何か」という問いとつながっているように思います。なぜなら親は子に教育を授ける義務を負うからです。ところが困ったことに、その“親”というものが私にはよく分からない。学校や仕事を選択したときと

違って、自ら決意して親になったわけではないからです。「よし、親になるぞ」と決心して親になったわけではない。結婚して、妻が妊娠し、出産を経て、いつのまにか、なんとなく、気がついたら親になっていたというのが正直な感想です。

よく「子どもは神様からの授かり物」といいますね。「授かる」とはよくいったもので、出産は自分たちの力だけではいかんともしがたい運命的なイベント。この“授かる”という言葉に象徴されるように、子が生まれて親になるのには、どこか受動的なイメージがつきまといます。

とはいえ、考えてみれば、親になるということはたいへん重大な責任を背負うこと。孟母三遷の教えではないけれど、家庭環境を含めて、親が子に与える影響は計り知れないほど大きいのです。子どもという一個の人間の、一生を左右してしまうかもしれない人格形成の大事な時期に、親は深く関わることになります。

親の行動や言動の一つひとつ、一挙手一投足が、子の人格を左右する。何気なく言った一言が、一生その子のトラウマになることだってあるかもしれません。ところが困ったことに、そのような重大な責任を背負う覚悟をもって自分は親になったわけではない。なんとなく気がついたら、親になってしまっていたというのが実感です。

でも、世間の大方の親御さんも、だいたい私と同じではないでしょうか。「親になるぞ」と決意して、何年間も「親学」を学び、完璧に準備をしてから親になったという話はあまり聞きません。そもそもほとんどの人が、少なくとも長男長女の場合は、育児未経験のままで親になるわけで、そういう意味で「すべての親は子育ての素人だ」といえるのではないでしょうか。親が負う「責任の重大さ」と「自覚の足りなさ」、このギャップの大きさには(自戒の念を込めて)あらためて驚かされます。

息子が生まれて十数年、ここまで私は“無免許運転”のまま親をやってきました。誰から教わったわけでもなく、真剣に学んだわけでもなく、見よう見まねで“なんとなく”“テキトー”に、親をやってきたのです。

子どもがコップの水をこぼしたとき「何やってんだ!」と声を荒げたことがありました。自分がこぼしたときには「ごめん」の一語で済ませるくせに。子どもが店の商品に触ったときには、思わず手をあげそうになったこともあります。子どもが純粋な好奇心から手を伸ばしたことを知っていたのに。

子を叱るとき、親は必ずしも正統な理由があって叱るわけではありません。単なる気分、感情で言葉を発するときもあります。子に何かを教えるとき、必ずしも専門的な知識があって教えるわけではありません。子が知らないことをいいことに、ちょっとだけ長く生きた自分が偉そうに言っているだけのこともあります。

息子がサドベリーに通うようになって「教育」のことを考えたとき、待てよ、教育について考える前に「自分はどうなんだ?」という問いが頭に浮かびました。親として偉そうなことを言う資格が自分にあるのかと。そう考えたとき、親の仮面がはがれ落ち、未熟な自分の姿がそこに見えてきたのです。「親とは何か」という問いかけは、まさに「自分とは何か」という問いかけに他なりません。

それで私の意識は変わりました。親子は「上下の関係」ではなく、人間として「横並びの関係」であるべきだと思うようになったのです。子はもちろん未熟ですが、親もまた未熟です。未熟者同士、親と子は対等に語り合える関係であるべきではないのかと。そう、「親と子は対等の関係であるべきだ」。これが、子どもが東京サドベリースクールに通うようになって私に現れた、大きな変化のひとつです。

でも、これだけではありません。実はもうひとつ、「親子の関係が対等であるべき」と考える理由があるのです。それについては次回、またこの場をお借りして話したいと思います。

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