written by parents
蓑田雅之

親の役割はかつてとは大きく変わってきています。
学校もまた時代の変化、社会の変化に気づくべきなのです。

前回、2回目の投稿で、私は「親と子の関係は対等であるべきだ」と書きました。それは人間として親も子と同じように未熟者だからという理由でした。しかし、実はもうひとつ、親と子の関係が対等であるべき理由が現代にはあると思うのです。それは「親の権威の失墜」です。「失墜」などと書くと悪いことのように思えますが、実はそうでもありません。これはごく自然な時代の流れなのです。このことについて、少々理屈っぽくなりますが、頭を整理して書いていきたいと思います。

まず「権威」というものの本質についてです。「権威」を辞書で引くと2つの意味が載っていました。「他を支配し服従させる力」と「ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること」です。さすがは辞書です。なかなか核心をついていますね。

昔の古い“親像”には、確かにこの2つの要素が備わっていました。親は何でも知っていて、偉くて、尊敬できる存在で、ちょっぴり恐くて、子どもたちは親の言うことに従わねばならないのです。ここでのポイントは「一般に認められている」ということです。そう、「権威」は一般の人に認められて初めて成立するもの。自分ひとりが偉そうにしていても、それは「権威」にはなりません。

そして、昔の日本の社会には、確かに親の「権威」を認める“空気”がありました。親は「偉い」「尊敬できる」ということを社会全体で認め、親の「権威」を支えていたのです。だから親は子どもを支配し、命令し、叱ることができたのです。ところが、この親の「権威」が、現代においては大きく揺らいでいます。理由は簡単で、社会に親の「権威」を認める必要がなくなったからです。

なぜ、親の「権威」を認める必要がなくなったか。それは社会が「伝承性」を失ったからです。「伝承性」とは古くからあるものを受け継ぎ、継承していくこと。文化、風習、知恵、知識、経験、技術、価値観などを受け継ぎ、後生に伝えていくことです。

伝承性が十分に保たれていた時代には、親は子にとって尊敬すべき対象でした。たとえばひと昔前の農家を想像してみましょう。この場合、親は子にとって無条件で尊敬される存在でした。なぜなら、農業にとっての大切な経験、知恵、知識を全て親が有していたからです。子にとって親は学ぶべき対象であり、尊敬に値する人物でした。つまり当時の親は、辞書の「権威」の項目にある「ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること」に値する人物だったのです。ですから必然的に親の「権威」は保たれていたのです。

ひるがえって、今の社会はどうでしょう。古くからある知恵や経験が伝承される社会でしょうか。電話が携帯に変わり、携帯がスマホに変わり、手紙がメールになり、メールがSNSに発展していく時代。次々と新しい技術が生まれ、仕組みが変わり、制度が変わり、常識や価値観が覆っていく社会において、昔の知恵や経験を有していることが、果たして「尊敬」の対象になるのでしょうか。

答えは「ノー」です。「伝承性」を失った社会では、年長者というだけでは「権威」を保つことは難しい。もはや先に生きているだけで「偉い」という時代ではないのです。

私は決して親や年長者をないがしろにしていいと言っているのではありません。伝承性が失われた社会では、年上というだけで「権威」を保つことは難しいと言っているのです。権威を失った人間がいつまでも偉そうにしているとどうなるか。たとえば会社を

解雇された上司のことを考えてみましょう。

非常に権威的で、威圧的な上司が会社にいたとします。彼は気に入らないことがあるとすぐに怒り、雷を落とすので、部下は恐くて逆らうことができません。なぜ逆らえないのか。それは会社という組織が彼に「権威」を与えていたからです。だから、彼が少々理不尽なことを言っても、誰も逆らえなかったのです。

ところが、何らかの理由でこの上司が解雇されたとします。もはや彼の「権威」を支えるものはどこにもありません。この上司はどうなるでしょうか。以前のように部下の前で偉そうにできるでしょうか。

もちろんできません。「権威」を失った人間は、辞書にあった「他を支配し服従させる力」を失うからです。これは現代の“親像”を考える上で重要なポイントだと思います。「権威」を失った親が子どもに命令し、支配しようとするのは、会社を解雇された上司がかつての部下に命令することに似ています。誰もそんな人の言うことは聞いてくれません。

「親と子の関係は対等であるべきだ」と私が考えるようになったふたつ目の理由は、上記のようなことにあります。このように伝承性を失った社会において、親の役割は、かつての親の役割と大きく変わってきています。自分の経験や知恵を子どもに授けることは、もはや親の役割ではありません。ましてや自分の価値観や思いを子に押しつけるなど、言語道断だと思います。

もちろん、親は子より経験を積んでいるので、アドバイスをすることは可能でしょう。善悪の基準を教え、躾けることも大切です。でも、こうした場合でも「こうするといいよ」とは言えても、「こうしなさい」とは言えないと思います。親は子どもの支配者ではないからです。昔と今とでは「親の役割」が変わってきている。この変化に気づくことが、いま、親として最も大切なことなのかもしれません。

子どもは親から独立した別の存在であり、昔のように、親の経験や知識を受け継いで生きていくものではありません。めまぐるしく変化する社会において、子どもは自分の人生を、自分の力で切り開き、親とは別の道を歩んでいかねばならないのです。そして、このように急速に変化する現代にあっては、学校の役割もまた変わってきていると思います。伝承性が失われた社会において、旧態依然としたカリキュラムで子どもを教育しようとする学校は、親と同じように「権威」を失いつつあります。学校もまた時代の変化、社会の変化に気づくべきなのです。私の家族が子どもと一緒になって考え、最終的に「サドベリー教育」を選んだ理由はここにあります。

次回はサドベリー教育がもたらす「保護者にとっての価値」について考えてみたいと思います。

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