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杉山まさる

いい学校の定義は様々あります。進学率が高い学校。就職率が高い学校。学校評価ランキングが高い学校。生徒の面倒見がいい学校。その名前を出せば皆が「おぉ!」という学校。

様々な角度や総合的な評価でそれぞれのいい学校というのは決まってきますが、私が今回お伝えしたいのはこちら。

いい学校=子どもに合う学校

大人は顔も生き方も千差万別ですが、それは子どもも同じ。つまり“全ての人は違う人”なので、おのずと向き・不向きや、何かに出会ったり、色々なことに気づくタイミングも違ってきます。

だからこそ、みんな違うといえるわけですね。であればそれぞれにとってのいい学校はおのずと違ってくるわけです。

国語や算数、英語などのジャンルを教えてもらいたいのであれば一般的な学校教育が合いやすいと思います。また、例えば特定のスポーツをしたいのであれば、そのスポーツを追求できる学校に行くこともいいですね。

野球であれば野球の強い学校などわかりやすいでしょうか。手前みそですが、社会で大人がしていることを子ども時代に経験したいのであれば、あるいは興味のあることを自分のペースで探して追求できる自由がほしいのであればサドベリースクールというのも手だと思います。

もっと具体的にいえば、「将来社会を変えたい、だから政治家になりたい」という想いがあるのであれば「政治家になった人の多いこの大学に行った方がいいだろう。だからその大学に進学までにこういうことをしよう」ということになるかもしれません。

その子にとっては、それらの大学やしようと思うことは、自身の目的に近づきやすい“いい学校・いい育ち方”といえそうです。でも政治に興味のない子にとってはこれらの学校はいい学校ではないかもしれませんね。

このように、それぞれの目的によって選ぶ学校や教育、育ち方などは変わってきます。

また学校にはそれぞれの教育理念(考え方)と教育方法(やり方)がありますが、根底は似ているものも多いものです。

例えばその子の個性を見つけどう活かすか、また社会でどう生きるかを学ぶというものなどです。

ですので、どうやってそれらの力をつけていくのかの教育方法の違いはあれど、教育理念は似てくるのです。

カリキュラムがびっしりある学校も、ない学校も「こういう子ども時代を過ごせば、大人になって自由に生きていける」と考えて、「自由への教育」という理念を掲げていたりするのはそういう理由があるのです。

そして現代では、実は一般的な学校や一般的な教育方法以外にも、たくさんの学校や教育が存在しています。

様々な歴史の流れで現在は今の教育が主流なのですが、過去には色々な教育方法がありましたし、今後もたくさんの教育が生まれてくるでしょう。
それらは地域や国によっても違うため全てをご紹介することはできませんが、興味のある方はぜひご自身でインターネットや本、詳しそうな方に尋ねるなど、色々調べてみてください。

きっと「え?こんな学校あったの?」「え?そんな育ち方アリ?」とびっくりすると思います。

では子ども時代にどのような学校・教育を選べばいいかというと、冒頭でお伝えしたように、私はできることなら一番その子に合ったところに行くのがよいと考えています。

とはいえ、過去はなかなか選べませんでしたが、現代であっても各家庭の状況によって難しいと思います。子どもの教育選択は、この多様性が進む社会であってもまだ進んでいません。

制度は整っていませんし、民意も、現場である学校も増えづらいのが現状です。ただそれでも今は少しずつ選べるようになってきました。そしてこれからの時代はもっと加速して教育を選べるようになりますし、また社会全体で選べるようにしていく必要があります。

それは文明が進むと個別化・細分化されていくからです。子どもがたくさんいて(じっ)()一絡(ひとから)げに1つの教育で育てるより、十人十色でそれぞれに合う育てた方がよいのです。

また、たくさんの子どもたちや保護者の方と接してきて思うのは、合っていないところにいると不幸を感じやすいということです。

「不幸になりやすい」のではなく「不幸を感じやすい」とお伝えしているのは、その状況は周りから見たら幸福に見えることもあり、そのギャップでさらに悩みが深くなることもあるから。他人からの承認と、自分の納得のはざまで、さまよってしまうのです。

そのため、よい学校というのは他人の物差しで測られたよい学校ではなく、また社会でいわれているよい学校でもなくて、その子自身が選んだ、その子に合った学校だと私は考えています。

それがたまたま社会的にもよい学校といわれる時もあれば、社会的にはマイナーだけれどとても合うところもあると思います。全ての大人に合う仕事がないように、全ての子に合う学校や教育はありません。

ですからある子にとってはよい学校であっても、別の子にとってはよい学校ではないわけです。

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